今、連句の次に、イヤ、最近では、むしろ連句よりも多くの時間を割いているのが合唱。 昨年、ほぼ40年ぶりに、学生時代に入っていた合唱団の定期演奏会に、OBとして参加、モーツァルトのハ短調ミサを歌った。 指揮者は、その合唱団のOB、在学中に学生指揮者であったが、卒業後、芸大に入り直し、音楽の道に進んだ人。 今は、某国立大学教授で、モーツァルトの研究家でもある。 昨年、合唱団の創立50周年記念に、OBOGが、ワンステージを現役学生と合同で歌うことになって、昨年暮れの定期演奏会出演となったわけである。 それの延長線上に、今年は、海外でのモーツァルト「レクイエム」を、ウイーンの聖堂でうたうという話が持ち上がり、そのまま、参加することになった。 昨年のメンバーと、指揮者が持っている音楽研究会の関係者からなる混声合唱団。 20歳前後の学生から、70を超えるシニアまで、総勢120人ほどで、年明け早々から練習に入り、月に3回、毎回3時間ほどの練習に励んできた。 明日は、プロローグとして、まず東京での演奏会、それが終わると、11月始め、ウイーンに飛ぶことになる。 100人を超える人数が、集まったのは、モーツァルトの音楽の素晴らしさが第一にあるが、それ以上に、指揮者の魅力が大きい。 私たちは、歌というものに籠められたモーツァルトのメッセージ、生と死を通して訴える神への祈りの意味を、どう表現するかを、学んできた。 ラテン語のレクイエムの歌詞は、キリスト教徒でない日本人には、理解の難しいところがある。 しかし、音楽というもので見ると、どうしてここは、フォルテでなければならないか、なぜ、このことばは、ピアニシモなのか、それが一つ一つ、モーツァルトの深い考えと、感受性に基づいていることが、ことばの意味と共に、だんだんわかってくる。 そのようなことを、毎回の練習で、私たちに、辛抱強く語り、訴え、体現しようとつとめている指揮者の姿勢に、皆、感動しながら、惹きつけられて来たのであった。 合唱は、1人では表現できない多くの音と、ハーモニーで成り立つ。 1人1人は小さな存在であるが、複数の人たちと、同じ空間を共有することによって、より深い音と、ヴァリエーションが得られ、豊かな音楽として、表現されるのである。 私は、合唱をやっていて、連句と共通する部分があると思った。 1人では得られないハーモニーが、思わぬ世界を作り出すこと、多くの人と同じ空間を共有することの楽しさ、それ故に、時には、自分を捨てて、人に合わせる努力、それらは、連句の付け合いにも、言えることである。 片方は、文芸の世界、もう一方は、音楽であるが、よく似たところがあると、つくづく感じている。 歌も、文芸も、1人でなければならない分野もある。 表現という点では同じであるが、孤独を極めて成り立つものと、決して人と一緒でなければ出来ないものとの違い。 深く、面白いテーマであると思う。
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