『王様とぬいぐるみ』 - 2010年10月30日(土) 「これ、なかなかいいね……」 その一言は、唇からするりと零れ落ちていた。 さやかはびっくりしたように瞬いて、閉じた唇に左手の指先をそっと当てる。 視線の先にあるのは、ふわふわのぬいぐるみタイプの黒猫のストラップだ。 「どれ? ああ、これか。確かに可愛いねぇ」 「……あ、……うん。このストラップ、出来良いよねー」 隣に居た友人が耳聡くさやかのつぶやきを耳に留めて、 彼女が見つめるものに目を向けてくる。 そこは、ストラップを扱っているスペースだった。 店先には他にもたくさんの動物のストラップが吊るされていて、 お土産物のキーホルダー売り場のように見えた。 何人かの客が足を止めている。 その中のひとりが別のストラップを手に取った影響で 陳列棚が揺れて、吊るされた黒猫の大群もふらふらと揺れていた。 「こんだけ居ると壮観だわ」 黒猫のさざ波を見て、友人も笑っている。 咄嗟に言い繕ったのだけれども、どうにか誤魔化せたらしい。 他にもたくさん並んでいる商品に視線を動かしてから、友人に話しかけた。 「真理ちゃん、あたしちょっとここ見たいなぁ」 「そお? じゃ、私ちょっとお手洗い行ってくるよ」 「ん、分かった。ここで待ってるね」 足早に雑踏に消えてゆく友人の背を手を振って見送ってから、 さやかはふう、と小さくため息を吐いた。 ストラップに向き直ると、「よかったら手に取ってみてくださいね」と、 やや広めのスペースの内側からにこやかな声がかかった。 視線を向ければ、このスペースの売り子さんの制服らしい、 お揃いのエプロンを纏った女性の一人がさやかに微笑んでいる。 ありがとうございますとお決まりの文句と笑顔で頭を下げて、 迷っている振りを始めた途端に、脳裏に響く声があった。 (ごめん、さやか。つい) やや低めの少年か、まだ年若い青年といった風の声。 いつもは落ち着いたその声音は、今は申し訳なさそうに揺れている。 (ああ、いまのやっぱりレックスだったんだ。びっくりしたよー?) 思わず笑いながら、自然と手が黒猫のストラップに伸びる。 こうして、脳内の会話から生まれる感情を誤魔化すように、 自然と演技をすることを覚えてしばらく経つ。 (ごめん。まさか、さやかの声帯を借りて出てしまうとは思わなかった) 彼はさやかに宿っている……ファンタジーやSFな小説風に言うなら意識体とでも表現すればいいのだろうか。 厳密に言うと『れねげいどびーいんぐ』というイキモノらしい。 さやかが住んでいるN市に伝わる都市伝説『猫たちの王様』の、その当事者。 現在は仮にレックスと呼ばれている。 彼は、どうやら半年ほど前に死んでしまったらしいさやかの まさに言葉通りの命の恩人だった。 彼がこの身に宿ったおかげで、さやかは今も息をしている。 その分、ちょっと厄介な体質になってしまったり、 良く分からない秘密組織の命がけの争いに関わることになったりしているが、 今のところ概ね問題はない、とさやかは思っていた。 子供すぎて、あまり事態を正確に把握していたとは言い難い当時のさやかに代わって、 『師匠』である人と共に、組織にあまり縛られない立場を確保してくれたのもレックスだ。 それは、さやかの為というよりは、 猫――それも野良に近い位置にいる彼の、矜持が為したものだけれども。 飼われすぎるのを良しとしない彼の行為に好感を持つのも、 さやかが無類の猫好きだからかもしれない。 (レックス、これ気に入ったの?) ひとつ取り上げてみると、 パイル地の生地で作られた猫は非常に手触りが良かった。 黒いボタンのつぶらな瞳が、さやかを見上げている。 (うん、何となくね。気に留まった……。さやか、何?) 非常に大人びている彼が、こんなことを言うのは珍しい。 笑いと驚きの合わさった心の揺れが伝わったのか、 レックスが問いかけてくる。 (ううん、何でもない。レックスって可愛いもの好きなの?) (……半年一緒に過ごしてて、今更そんなことを聞くのかい) 呆れたような溜息が最後に続く。 もちろん、知っている。 レックスはあまりそういうことにはこだわらない。 自身の自由意思というものを大切にし、 ちょっぴり魚が好きで、チーズも好き、それくらいだ。 だからと言ってさやかにそればかり食べろと言うわけでもなく、 むしろバランスの良い食生活をしなさいと 常々さやかにお小言を寄越すくらいである。 おおよそ、何かを特別にしたりすることはない。 だからこそ驚いた。 彼が何かに興味を、さやかの口を借りて出てきてしまうほど強く抱いたということが。 「すみませーん。これください」 (ちょっと、さやか!) さやかは手に取ったストラップを戻すことなく、 近くの店員さんに声をかけた。 「はい、ありがとうございます」 「あ、包装は要らないです。このまま付けて行きたいから」 (さやか、無駄遣いは止しなさい! お母さんにも言われてるだろう) 脳裏で慌てたように声を響かせるレックスに、 (無駄じゃないもん!)と一言を返した。 笑顔でお財布から硬化を何枚取り出すと、店員さんに渡す。 まだ慌てている気配がするが、さやかは気に留めなかった。 さやかに代わって身体の主導権を握ることもできるレックスだが、 普段の生活では一切関与しないとしている通り、 今回もやっぱり要りませんなどと踵を返すようなことはしなかった。 レックスのそういうところも、とても好きなのだ。 黒猫を一匹手に入れたさやかが、 店先で嬉しそうに携帯のストラップを付けはじめると、 深くため息をついている。 (ねだるつもりじゃなかったんだけどね) (べつにそうじゃないよー? 私も可愛いって思ったもん。ほらほら) 薄桃色の携帯を目の前に持ち上げる。 先に付けられていた薄桃のビーズを繋げたストラップや、 ペットボトルのおまけについてきた小さなラッキーチャームと並んで、 つぶらな瞳の黒猫が揺れている。 「今日からよろしくねー、猫ちゃん」 ご機嫌で話し掛けるさやかに、店員さんも微笑みを向けてくれる。 (……ありがとう、さやか) 脳裏に響いたささやくような声音は、 この半年で初めて聞く――どこか照れたような、感謝の言葉だった。 【Fin】 ...
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