『お売りいたしましょう 花はおだまき』 - 2009年09月03日(木) 「お嬢様、間も無く馬車の準備が整います」 青年の声が静かな室内に響いた時、 ヘレンはソファに横座りになって詩集を眺めていた。 右腕でそっと背もたれに寄りかかり、 伸ばした左手で膝の上に置いた分厚い装丁のページをまたひとつ繰った。 「そう。ありがとう、ジャック」 扉の脇に控えた青年が胸に右手を当て会釈するのを横目に、 ヘレンの視線はまだ詩集に縫いとめられたままだった。 普段であれば必ずメイドの一人は控えている室内も、今は彼女と彼の2人だけ。 それも、扉も窓も一切締め切った彼女の部屋だ。 両親の耳に入れば、嫁入り前の娘が何とはしたないことをと叱責されるに違いない。 それでも構わなかった。 メイドの中で誰より傍に居てくれた彼女――デボラに隠し事をされていたと判った今、 一体残ったどのメイドに信を預けられると言うのだろうか。 新たなメイドを見張りに送れば、その彼女こそデボラを逃がしてしまわないとも限らない。 今、屋敷の中で誰より信頼できるのは、このジャックだった。 庭師の息子であり、幼馴染であり、長じて見目と頭の良さを変われ取り立てられた従僕。 それも、従僕の中でも上から数えた方が早い立場になった今では、 こんな風にヘレンの戯れに延々と付き合わせて良い訳ではない。 或いはジャックとしては目付けの意図があるかもしれないが、 このこともおそらく後日父親からの叱責に含まれるだろう。 ヘレンの胸の内で、他人事のように思った。 挿絵のあるページで指が止まった。 素朴なスミレの素描。その輪郭を指先でたどる。 「ジャック。花は何が好き?」 「……花、でございますか」 唐突に投げた質問にジャックが驚いた気配が伝わる。 返答に少しの間があったことに、ヘレンの口元に束の間淡く笑みが浮かんだ。 「そう、花よ」 心の中で、ゆっくりと数を数える。 絵のスミレは摘めない。代わりに、輪郭を辿る。ひとつ、ふたつ。 暗記するほどに繰り返し読んだ詩集であれば、 今更じっくりと読書の相手にしていたわけではなかった。 一人で居てはどうしようもなく思い巡らせてしまうから、 気を紛らわせようと開いていただけだ。 「どれも等しく。ただ……」 「ただ?」 「春一番に咲いたさんざしの花は、見つけると心和みます」 いかにも庭師の息子らしい回答だった。 風ぬくみ、雪が解けた後、花の季節を告げる白い花弁。 ヘレンの指は子供が遊ぶようにページの上で踊っている。 「……ドエットは朝から待っている」 「お嬢様?」 「さんざしの花の下でひっそりと」 「お嬢様!」 「いつまでも来ない愛しいドオンを……」 茫洋とした響きでヘレンが詩の一節を紡ぎ始めると、 ジャックがはっとしたように息を呑んだ。 大きな歩幅であっという間に距離を詰めると、 無礼を断る短い言葉と共にヘレンの膝の上から詩集を攫って行った。 少し離れたテーブルの上に置かれるけれど、 ヘレンは別に朗読をしていたわけではない。 詩の暗唱は、代わりに別のものによって止められた。 床に膝をついて見上げるジャックの真っ直ぐな青の瞳。 覗き込んでくる視線の優しい色合いは、幼い頃と変わらないままだ。 驚くほどたくさんのものが、時を経て変わってしまったのに。 「ねえ、何故なのかしら。嘘ばかり私にくれたのは」 「ヘレン様」 「……私が、泣いて駄々をこねると思ったのかしら。 お父様や小父様に言いつけて、2人を裂くのだと思ったのかしら。 そんな子だと思われていたのかしら。トーマス様にもデボラにも」 ジャックが何か返事を寄越した気がしたが、意味を持った言葉として届いては居なかった。 なぐさめも小言も、今の自分には必要ないものだ。 視界が暗くなったような気がして、ヘレンは瞬いた。 急に曇りだしでもしたのだろうか。 おもむろに視線を窓の方に向ける。 区切られた窓枠から覗く空はめずらしいくらいに初夏の青一色で、 白いものは窓辺に下がるカーテンと、ガラスの花瓶に活けられた百合くらいのものだった。 気のせいだったのだろうかとヘレンは小首を傾げる。 一筋、耳の傍の髪が揺れて頬をくすぐった。 デボラはこんな後れ毛も上手にまとめてくれたものなのに。 不意に思ったことに気付けば、ヘレンの口元に自嘲の笑みが浮かんだ。 「そろそろ行きましょうか。折角皆が手を尽くして見つけてくれたのに、 私が手間取らせて無にしてしまってはいけないものね」 「……お供いたします」 「ありがとう、ジャック」 ソファから身を起こすと、身にまとっていた青紫のドレスに皺が付いていた。 特に強く折れて敷かれてしまったらしく、 右サイドに遠目にも見て取れると思しき一筋が横切っている。 作法の家庭教師に見られたら即座に注意の飛びそうな姿勢をしていたのだ、 其れもまた仕方ないだろう。 着替えを、と言いかけたジャックをヘレンは身振りで止めた。 今はメイドの誰も近づいて欲しくない。 かといって、従僕に着替えを手伝わせるのは言語道断だ。 「供は、従僕と御者だけでいいわ」 立ち上がって歩みだすと、俯いた視線の先でドレスのスカートが軽やかに揺れた。 風に震える花のようだ。 そう。――色といい、まるでおだまきの花。 「お売りいたしましょう、花はおだまき……」 視線を上げると、口元に笑みを佩いた。 背筋は伸ばし、転がり出るままに詩の一節をつぶやく。 (2人が思ったのなら、期待通りに振舞ってあげる。 裏切り者だと泣いて詰って――許さないと叫ぶ、そんな女だと思ったのでしょう) 頭を垂れ、先導するように前を歩みだした黒いベストの背に続いて、ヘレンは部屋を出てゆく。 主の居なくなった部屋の中、締め切られて風の無い窓辺に咲く百合。 その白い花びらが一枚、静かに床に落ちていった。 お売りいたしましょう 花はおだまき 気鬱にわたくしは心ふたがれております 心変わりさせるようなことはなさらないであなた 心はもう離れていらっしゃるのですものね 本当を仰って下さい ごまかしを言ったり ぬかよろこびをさせるのはやめて下さい クリスチーヌ・ド・ピザン(杉原整・訳)「売りもの遊び」より (あとがきっぽいものを、ブログの方にひとまず載せてあります) ...
|
|