no title - 2007年05月14日(月) 自分を満たすことって、 結局自分にしか出来ないのだと、この頃思う。 誰かに「満たして、埋めて」と願ったとしても、 それだけでは駄目なのだと。 心にはそのままでは底がない。 きちんと受け止めるつもりがなければ。 どれだけ願って欲して、 周囲がそれに応えて注いでくれたとしても、 流れて流れて留まりはしない。 本当はでも、誰かに貰うまでもない。 心に底がないのは本当はそこが泉だから。 貰うための場所じゃなくて、 溢れてくる場所だから。 自分で水脈を止めて空なのだと訴えても、 それは究極のところ、自分で治すしかない。 ただ、生憎ながら、 いつもうつくしい水を湛えられる水脈を見つけられる人と、 これっぽっちも水脈のありかを見つけられない人というのは 現代には確かに存在する。 いちばんの理由は、子供のころ。 本来は育ててくれる人が無条件に注いで注いで、 ひたすら注いでくれてようやく知るものを 教えてもらえる環境になかった人。 そういう人は、自分でこれが水脈なのだと学ばなくてはいけない。 その水脈を導いて、 自分の泉を満たして、 外へ外へと溢れさせてゆけるように。 湧き水は小川になり、小川は大河になり、いずれ大海へ注ぐ。 大海に湛えられた水はやがて天に還り、 天の何処かで雲になって雨を降らせる。 その雨は地上に吸い込まれて、やがて湧き水となって小川になる。 だから、どんなに溢れさせても水はなくならない。 水脈は枯れない。 砂漠に突き当たってどんなに吸い込まれるように見えても。 10年前くらい、ひどい焦燥を抱えていた。 胸の真ん中が空っぽみたいで、その空洞をどうにかして埋めたくて。 きらきらの刃を埋めてみたら、 いっそこの空白を感じなくなるのかと そんな想像をしたこともある。 その期間を越えてきたのは、 欠片ほどの大事なもの――私の細い細い水脈のお陰。 そしてその水脈を、蔭で、日向で、守ってくれた人たちのお蔭。 幾つかの水脈を必然と故意とで切り替え切り替えしつつも、 確かに繋いで来られたから、今、私はここに生きている。 水脈を導くのは、感謝。 例え切れてしまった関係でも、 水をくれたことは確かなのだから。 自分の小川に、大河に、海に、その水は生きているから。 恨みつらみ、切なさ悲しさを向けるのではなくて、ありがとう。 そう思えるようになったら、 その思い出は永遠の水脈になる。 どんな水源を作るかは、自分次第。 「一人では生きられない」という意味は 水源のその大元だけは、自分では作れないから。 人とのつながりのなかに生まれるものだから。 誰かに水を流し続けてもらって生きるってことじゃない。 でも、無闇に掘り続けるってことでもない。 水脈はこの世界に生きていれば幾つも幾つも出会っているから。 まずはそれを大事にすること。 そして、水脈の或るところに また別の水脈も集まってくるという そんなお約束も、この世界には存在している。 まずは、ささやかな水脈を見つけて。 いつもいつも感謝を捧げたい。 ...
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