003 花 - 2004年09月16日(木) 「……雪舟。作業中にすみません。灯りをお入れしますよ?」 不意に背後から掛けられた声に、雪舟はゆっくりと顔を上げた。 振り返ろうとすると、肩のあたりがきしきしと傷む。 それでやっと、自分が随分と長い間手元に神経を集中させていたのだと気づく。 細工刀と木っ端を小さな文机の上に置き、 体ごと背後へ向きを変えると、 ちょうど白雪が行灯に火を入れるところだった。 灯明皿の小さな炎が受け渡されて、部屋の中が淡い光で照らされ始める。 長逗留で大分馴染んだ宿の部屋。 調度品などは決して高級品ではないものの、 きちんと手入れされた室内は、 古びた建物特有の落ち着いた静かな空気がそこかしこに感じられた。 床の間に掛けられた墨絵の掛け軸と、 小振りの花器に活けられた二色の小菊が上品に纏まっている。 供される食事は贅はではなく趣向を凝らしたもので、 店の者の対応も躾が行き届いていて気持ちがいい。 数度話した主の人柄にも惹かれ、 雪舟はついついこの宿に長居をしてしまっているのだった。 「すまない、ほんの少しのつもりだったのに」 昼の軽い食事の後、食休みのつもりで始めた木彫りだったが、 結局午後いっぱい夢中になってしまったらしい。 日が落ちたことにも気づかないほどに興が乗るなど、 自分自身で驚いてしまった。 右腕に目をやれば、軽く捲れた着物の袖の奥から手の甲に掛けて、 斜めに横切るような深い裂傷の跡が見える。 利き腕に今も残るこの醜い傷跡は、 かつて目指した傀儡師の道を断念せざるを得なくなった理由だった。 何気ない仕草を装って、袖を下ろす。 彼女も承知していることだったが、 白雪にはあまり見せたくない傷だった。 「いいえ。それよりも……よろしければ見せて頂いても構いませんか?」 「めずらしいことを言うね」 わずかに苦笑を混ぜた表情で笑んでみせると、 慌てた様子で白雪はうつむいてしまった。 「すみません、出すぎた真似を……」 畳に視線を落として姿勢を小さくする白雪に、 雪舟は顔をほころばせる。 生まれたての頃と比べてはなるまいと思うのだが、 どうしても、自分の良く知る懐かしい時代と比べてしまうのだ。 何に対してもおっとりと鷹揚に頷いて微笑むだけだった頃の白雪を思うと、 表情豊かに生き生きと振る舞う今の成長振りに、笑みを隠せない。 (親というのは、こういう気持ちになるものだろうか) 雪舟はぼんやりと、今はもう亡い師のことを思った。 自分の生み出した傀儡を、本当に慈しむ人であった。 この白雪の姿を見れば、きっと誰より喜んだであろう。 潤みそうになった目元に、慌てて気持ちを誤魔化す。 「冗談だよ。……おいで」 忍び笑いを漏らしながら手招くと、 頬を赤くしながらも女はしずしずと雪舟の元へ近づいてきた。 そのままでは影になってしまうと気づいて、 文机に乗った木っ端を――もう別の形を与えられてそう呼べなくなっているのだが、 付いていた削り屑を払って白雪の白い繊手に手渡した。 「まあ……」 受け取った彫り物を行灯にかざして、白雪は感歎のため息をもらした。 暖かい光の中で梅が一輪、小さな花を開かせているところだった。 昼間見たときには木の切れ端だったものが、 瑞々しくも可愛らしい一輪の花へと生まれ変わる。 そこに顕現する梅花は、間違うことなく天賦の才の片鱗であった。 不世出の天才、夭折の若き匠と、 今でも好事家に名を惜しまれる傀儡師橘右京が、 唯一迎えた内弟子の証。 「見事な梅の花ですね」 そう言ってくすりと笑んだ白雪は、 角度を変えては、艶やかな花弁が行灯の光を弾くのを飽きず眺めている。 「白雪にあげようか」 雪舟が口にした提案に、白雪は黙って首を横に振った。 元より予想された返答だ。 気落ちすることもなく、雪舟は「そうだね」と繋いだ。 「色を付けるなら、何色がいいと思う?」 「……赤。紅梅にしてみては如何でしょう」 静かな微笑と共に、木彫りの梅が手渡される。 受け取って、雪舟は小さな花の花弁の縁をゆっくりと指で辿った。 今から雪の季節を迎えようとする頃合、 本物が咲き綻ぶ前に開いた一輪の紅梅は、きっと美しいだろう。 白雪の提案に頷くと、文机の上に木彫り細工をそっと戻した。 「では明日、赤い染料を求めてこよう」 「ええ……色を付けて簪に細工すれば、きっと可愛らしいでしょうね」 「じゃあその簪が出来上がったら、ここを出立しようか」 驚いたのか一瞬目を丸くした後、微笑んだ白雪は静かに頷いた。 中庭の方に目をやれば、夕暮れも過ぎて薄暗くなった中に ぽつりぽつりと立つ石灯籠の灯りが淡く滲んでいる。 枯れた薄の群れとまだ実のふくらまない万両が、一幅の絵画のようだ。 「雪舟はこちらを随分気に入っていらしたようですから、 今年の冬はここで越すのかと思っていました」 「……それも良いかと思っていたけれどね」 雪に籠められてしまう前に、あの人の墓前に立とう。 口にはせず、微笑むだけで意思を伝えれば、 白雪もまた寂しげな微笑で答えてくる。 ふたり共に、迷子だった。 永遠に報われることのない、一生の迷子。 唯一の親を不意の深遠に亡くして、 彼と繋いでいた手を代わりにお互いに結び合う。 労わり合うような微笑みは、流しても尽きない涙の代わりだった。 ** 年が改まり、曇天に粉雪がちらちらとちらつく日のこと。 小さな宿場の小さな宿に、一組の親子連れが訪れた。 外見からは年の探りにくい寡黙な父親に手を引かれて、 可愛らしい5つか6つほどの女の子は、物珍しそうに辺りを見回している。 宿の主人と言葉を交わす父親の手からふいに離れると、 女の子は玄関口に飾られた竹細工の一輪挿しの前に立った。 花の乏しい今の季節、そこに刺さっているのは 一輪の紅梅が美しい小振りの簪だった。 零れそうに大きな目を瞬かせて、 女の子は造花の花に見入っている。 「……小雪?」 娘の行動に気づいた父親が声を掛けると、 素直に振り返った女の子はにっこりと笑って簪を指差した。 父親も、紅梅の出来映えに感歎のため息をもらす。 髪に白髪の見え始めた宿の主人は、人の良い笑みを浮かべて 以前の逗留客が置いていったものだと説明する。 素晴らしい出来でしょう、との言葉に、 父親は同意の頷きを返した。 作り手の才を思わせる、瑞々しく花開く梅花。 しばらくして、一宿の話を決めた父親が呼び戻しても、 女の子は一輪挿しの前からいっかな動こうとしない。 よほど気に入ったのか、言い聞かせようとする父親に泣き顔すら見せる。 苦笑しながら、女将と顔を合わせた主人は父親に提案した。 「お嬢さんに差し上げましょう」 慌てて辞退する父親に、主人は微笑みながら首を振った。 この作り主の名前も、名に雪という字を持っていた。 お嬢さんの名前からして、きっと何かのご縁でしょう、と。 その一方で、一輪挿しから簪を抜き取った女将が 女の子の髪を手早く結って、紅梅を飾ってやる。 眦に涙の名残の粒を留めたまま、 小雪と呼ばれた女の子はにっこりと微笑んでみせた。 恐縮する父親に、主人はいいえと笑う。 可愛らしい持ち主に巡り会えて、簪も喜んでいるでしょう。 「では、五行様にお嬢様、お部屋へご案内いたします」 「はい……おいで、小雪。ちゃんとお礼を言いなさい」 手招きに父親の傍に寄った女の子の微笑みを見た主人は、 秋の終わりに長逗留していった女の面影を見たような気がした、という。 *********************************************** 和モノ好きさんに100のお題 ...
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