001 雪 - 2004年09月10日(金) ふうわりと、縁側を行く古登の視界の端を白いものが横切っていった。 あ、と思って庭の方に目をやれば、あたり一面に雪が舞い始めていた。 ここ数日の春めいた暖かい日に比べて 驚くほど肌寒く薄曇った日だったため、 朝から空模様を心配していたのだが、案の定だった。 爪ほどもある牡丹雪が小さな池の水面に次々と降り注ぎ、 弱い波紋を残して吸い込まれていく。 遣り水の流れる音は、雪の静寂に包まれて弱まったようにも感じられた。 そこここの緑樹は溶けかけた雪粒を引っ掛けて薄ら寒そうで、 ようやくふくらみ始めた木蓮の蕾も、 何だか小さくなってしまったようにさえ見える。 暦だけでなく季節の移ろいも初春を迎えていれば、 積もってしまうこともないだろうが、 夕刻になってこの雪では今宵はうんと冷え込むかもしれない。 古登は、ここ数日食事も満足に取らず作業場に篭っている師のことを思って 大きな溜息をついた。 先日、傀儡を生み出すに相応しい神木を手に入れてから、 師はまるで時間を忘れてしまったかのように暮らしている。 作業場の土間に筵を敷いて座り込み、 時には横笛を吹き鳴らし。 閃きを待っているのだ、と師は言う。 何でもない木の幹が、大気の中に不意に姿を描き出す瞬間を捕まえるのだと。 そうして掴み取った姿を見事な人形にしてのける古登の師は、 ここ数年で、人形道楽に金をつぎ込む諸侯たちの間に 急速に知られるようになっていたが、 傀儡師としての才能は類稀なくとも、健康に関しては万能ではない。 食事も睡眠も放り投げているところに急な冷え込みが来れば、 誰だって体調を崩しても決しておかしくはない。 内弟子として、師の身の回りの世話を仰せつかっている古登にとっては、 この雪はあまり歓迎できそうもなかった。 ため息をつけば、ほうと鳴った呼気が白く染まる。 目にはっきりと映った寒さの実感に、背筋が震えた。 まだ火鉢は仕舞い込んでいない。 作業場に火のものはあまり持ち込みたくないが、 今日は陽が落ちてしまわぬうちに 暖を取る支度をしておいた方がいいだろう。 物置小屋へ炭を取りに行こうと踵を返すと、 庭の方で濃紺の影がゆらりとうごめいた。 目を瞬かせれば、ぼさぼさの総髪が歩調に合わせて揺れている。 「右京様……」 古登のつぶやきを拾ったのか、 頭に肩に牡丹雪を受けながら、師匠の視線がこちらへと向いた。 顎のあたりに伸びた無精髭を認めれば、 古登はつい顔をしかめてしまう。 古登の師――橘右京は、高下駄をからから言わせながら、 雪の舞う庭を古登の方へ歩んできた。 「ちょ、右京さま!」 降りた雪が滲んであっというまに重い黒のまだらになってしまった師の着物に、 古登の方は大慌てである。 (手ぬぐい、いや着替えか!? それより湯浴み?) 考えはするものの、こちらへやってくる師匠を放っては動けず、 縁側から身軽に飛び降りて師匠の方へ走り出す。 素足の裏に、踏んで壊れた氷の粒の冷たさを痛いほど感じながら、 緩慢に歩む師の手を取って、軒の下へと連れ込んだ。 「古登……?」 「古登、じゃないですよ、右京様!」 「……何を怒っているんだ?」 「阿呆ですか、アナタ!!」 師匠に向かって阿呆と叫んでしまってから、 ふと我に返ってまずい、と肩を竦めた。 ここへ奉公に上がってから日も長いのに、 鉄火気質はいつまで経っても治らない。 気まずさを隠しながら、 自分の着物の溶け出した露を片手で払う一方で、 師匠の着物に乗った雪も急いで落としにかかる。 もとの濃紺色を探す方が難しくなっているが、 それでも解けた雪で師の体が冷えてしまうのは少しでも避けたい。 「こんな雪の中に出てきたらだめでしょう。 呼んで下されば傘でも何でもお持ちしますから」 「……ああ、そうだな。悪かった」 そう謝罪の言葉を告げながらも、 師の視線は庭の方へ、雪の降る景色へと留められている。 半分呆けたような光を宿す真っ黒い瞳の色合いは、 いっそ古登よりも年下の、幼子のようにも見えた。 (創作に掛かっている時の行動は、 まるっきり読めない赤子みたいなものですけどね) 心中でため息をつきながら、 それでも師匠の世話を焼けるのは嬉しい。 仕方ないと微笑んでしまいそうになる自分を押し留めて、 仏頂面を作りながら、自分の着物の袖で濡れた髪を拭ってやる。 「それで、どうかされたんですか?」 「うん、かたちがつかめたような気がしたから……」 「今度の傀儡のですか?」 「ああ。銘は……」 「それは良かった!」 言い差した師匠の言葉を押しのけて、 古登はぐっと師匠の手を掴む。 「じゃあ、ご飯食べますよね? 一眠りしますよね? ついでに湯浴みもして身支度を整えましょう、はい、入って入って」 有無を言わせず母屋に引っ張り上げようとすれば、 師はたたらを踏みながら高下駄を脱いで、板張りの縁側へと上がる。 脱ぎ散らかされた下駄が飛び散っているのは、今は見ない振りだ。 「少しの間だけそこに居てくださいね? 今手拭いと変えの着物持ってきますから。 すぐですから戻っちゃだめですよ? で、急いで湯浴みの支度もしちゃいますね。 夕飯も、湯浴み終わったら食べられるようにしておきます。 すぐですからね、戻っちゃだめですよ、ね? いいですね?」 立て続けに喋ってしまうと、 呆ける師匠に念を押して、古登は屋敷の中へと駆け出した。 だから、ぱたぱたと忙しなく駆け去る背中を見送っていた師が、 めずらしく声を立てて笑い始めたことを、古登は知らない。 右京は、濡れた着物の懐から無造作に横笛を取り出して 庭の方へと視線を向けた。 大振りの雪片は止むことなく、 次々に灰色の雲間から舞い降りてきて、 建物へ、樹木へ、地面へと覆いかぶさってゆく。 池に吸い込まれてゆく雪に目を細めながら、 自然な動作で横笛を口元へ当てた。 気負わぬ呼気で一声を奏でる。 (銘を伝え損ねたな……) 続く曲を吹き鳴らしながら、 雪景色に一層強く思い浮かぶ女の面影に、 この名に間違いはないと確信を強める。 奏でる曲の名と同じ。 (……おはよう、白雪) 強く強く吹き鳴らせば、面影が笑んだような気さえする。 背後に戻ってくる弟子の足音を聞きながら、 右京は目を閉じて横笛の音色に意識を任せた。 *********************************************** 和モノ好きさんに100のお題 ...
|
|