マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

村上春樹『アフターダーク』の感想(注・激しくネタバレ) - 2004年09月14日(火)

※以下の村上春樹「アフターダーク」の感想は、激しくネタバレしているので、まだ未読で、今後読まれる予定の方は、読まないことをオススメします。



 『アフターダーク』を読みながら、「これが村上春樹の話題の新作じゃなかったら僕はこの本を最後まで読むだろうか?」と考えていた。
 正直、『アフターダーク』は、単体であまり面白い作品ではないと思うし、村上さんも別に面白さを意識しているわけではないだろう。そもそも、『アフターダーク』には、村上さんの「迷い」みたいなものが垣間見られるような気がするのだ。
 演劇の脚本のような視点ではじまるこの作品を読んでいて、デニーズのチキンサラダについての高橋のセリフのところで、僕はようやく一安心した。
 「ああ、これはやっぱり村上春樹の書いた作品だな」と。
 逆に言えば、そこまでは、「何だこれは?」と考えながら読んでいたから。
 
 基本的に『アフターダーク』は、「何も劇的なことは起こらない物語」だ。もちろん、中国人の娼婦が襲われるのは「事件」じゃないのか?とか言われたら、それはたぶん事件なんだろうけど。
 そして、この物語は「何かが起こりそうな予感」だけが延々と続いていって、そのまま終わりを告げる。もちろん(小説世界内での)現実は続くのだろうけど、やや尻切れトンボなイメージすら残して、物語は終わる。

 僕が村上さんの作品を初めて読んだのは、高校時代の『ノルウェイの森』だった。当時大ベストセラーになったこの小説を読んで思ったのは、「大学生って、こんなに毎日恋愛とかセックスとかして暮らしているのか?ということだったのだけれど、今でもときどき読み返すと、新しい発見がある小説だ。
 少なくとも『ノルウェイの森』をはじめて読んだときの僕には、「だれかがスッと消えていく井戸」の存在なんて、フィクションだと思っていたから。

 それから、さかのぼって「風の歌を聴け」から初期作品を読み漁り、「ねじまき鳥クロニクル」までは、リアルタイムで、ほぼ全作品を読んだ。
 
 僕も年を取るにつれ、村上作品への見方というのは変わってきた。
 まず最初にハマっていたときは、この作品の主人公は僕なのではないか、なんて感じていたものだった。現実とうまく折り合えないことを自覚しながら、完全に現実から外れてしまうほど特別な人間でもなく、意外とそのボーダーラインの上でバランスがとれてしまっている生きかた。
 『ノルウェイの森』で、直子はワタナベ(主人公)に、「あなたは私とキズキ君を現実と結びつけるための唯一の手がかりなのよ」と言っていた(セリフの詳細はうろ覚えなので、正しくないです)、そういう立場になった経験もあったしね。

 しかし、社会人になったくらいから、「村上作品の主人公というのは、作品世界の中でしか生きられない存在なのではないか?」という疑問を持つようにもなったのだ。
 そもそも、作品内では、「僕」の敵と味方しか登場しないけれど、現実の大部分は、「僕」という存在を石ころのように無視して、まったく歯牙にもかけない(要するに、「敵」とか「味方」とか、そういう意識すらない人々だから。

 村上さんは、『風の歌を聴け』で、そういう「現実と折り合えないけれど、適応はしている人間」(あるいは、「適応できないと自分で思いこんでいるだけの普通の人々」)の姿を描いた。ただ「そういうものがあるのだ」と描いてみせれば、みんな「そう、そうなんだよ!」と頷いてみせた。
 たぶん、人気作家になったことは、村上さんにとって、喜ばしいことであったのだと同時に、いろんな否定的な言葉も耳に入ってきたのだろうし、それに対する悩みもあったのだろう。僕は村上春樹作品のなかで「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」がいちばん好きなのだが、この作品の最後は、自分はそんな特別な人間ではないかもしれないが、それでいいんだ、という「静かな自己肯定」が伝わってくる。これは自分に言い聞かせていたのだろうか?と僕は思ったし、僕自身も予想していた結末とは違っていたのだけれど、なんだか不思議に救われたような気分になったものだ。
 そして、「ノルウェイの森」。これは、喪失と再生と俗世への回帰の物語なのだろうと思う。実話かどうか?なんて村上作品で想像すること自体野暮なのは承知の上で考えるに、「直子のような人」が、たぶん、身の周りにいたのではないだろうか?ああいう、ふたりで東京の街を延々と歩き回るような描写は、「体験していないと書けない」のではないかと思うから。

 阪神大震災、オウム事件を機に、村上さんの作品は、より「現世的」になってきた印象がある。ある人が「村上春樹は、震災という大きな人々のうねりを現場で体験していたのに、どうしてオウム事件のことにばかり言及して、震災のことを書かないのか?」と批判していた。
 僕は、単に「震災というのは、村上さんにとって書くべきテーマではなかった」からなのだと思うのだが。
 とはいえ、村上さんはオウム事件に対して、地下鉄サリン事件の現場にいた人々への取材から『アンダーグラウンド』という大著を書き、加害者側のオウム信者に綿密なインタビューを行って、『約束された場所で』というインタビュー集を残した。
 この頃から、村上春樹という人は、「現実と自分とのかかわり」というのを強く意識していたのかもしれない。あるいは、「大作家・村上春樹」は、もう隠者ではいられなくなった、ということなのか。そして、村上さんの側からも、現実に対するアプローチを行うようにもなってきている。
 「現実とうまく折り合いをつけて生きる」ことから「生きていくために、変えられる現実なら、変えていきたい」という積極性、のようなものが生まれてきたのかもしれない。

 あるいは、ちょっと穿ったみかたをすれば、初期の作品は村上さんが書きたいことを書けば「新しい小説だ」とみんな感心し、「ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」くらいまでは、書きたいものを書いたら時代の空気にちょうどフィットしていたのに、村上さんも年齢を重ねるにつれ、「自分の書きたいもの、書けるもの」と「時代」とのギャップを感じるようになったのではないか、という気もするのだ。『アフターダーク』は、「作為」とか「苦心」みたいなものが、ものすごく伝わってくる作品だから。
 
 『アフターダーク』は、ある種実験的な作品であり、「やおい(ヤマなし、オチなし、意味なし)文学」(一般的に常用されている「やおい」とは違うけどね)なのかもしれない。
 僕はマリのようなちょっとひねくれた女の子は好みではあるけれど、街の「アフターダーク」の現在は、この作品で描かれているほど若い女の子に優しくはないだろうな、という気もするし、マリがエリに対して思い出した温かい記憶があまりにベタなので、「もうちょっと何か意外な状況を思いつかなかったのか」と言いたいくらいだったし、白川も覆面の男も高橋もコオロギも、みんな中途半端な感じがした。
 とはいえ、村上さんは「都会の夜の恐ろしさ」を描きたかったというわけではないだろうし、むしろ、「都会の夜というジグソーパズルのピースを埋めていく作業をやってみせた」というだけの小説なのかもしれない。そして、中途半端なのは、もちろんそれを狙っていたわけだ。
 
 さまざまなサイトで『アフターダーク』の感想を読んだのだが、続編を望む声がけっこう多かったのに驚いた。この話は、この「中途半端さ」こそが重要で、それは「余韻」のようなものなのだ。「物語には続きがあるけど、明示されない」からこそ、読んだ側には印象に残るに違いない。

 『アフターダーク』自体は、僕はあまり面白いとは思えなかった。1400円出せば、もっと「面白い小説」はたくさんあるだろう。
 でも、村上作品の流れのなかで考えると、これはきっと、ひとつの「過渡期」なのだろうな、という気がして、確かに興味深い作品ではあるのだ。
 おそらくこれは、「自分の周りの世界に対する、新しい向き合いかたの胎動」みたいな位置づけなのではないかと僕は思う。
 とはいえ、「苦心している、がんばって書いている村上春樹」が伝わってきてしまうのは、昔からのファンとしては、若干寂しさを禁じえない。水の下で一生懸命泳いでいるのに、水の上では優雅な白鳥のようなスタイルが、村上作品の美学だというイメージがあったから。
 これは「進化」の過程だと、信じたいのだけれど。

 ところで『アフターダーク』でいちばんビックリしたのは、「村上さん、スガシカオとか聴いているんですか?」っていうことでした。ひょっとしたら、編集者に「今流行りの若者向けの音楽は?」と聞いて、その受け売りなのかもしれませんが。



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