マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「もうひとつのセックス」幻想 - 2004年01月10日(土)

今日の話は、この参考リンクを(そして、できれば「ノルウェイの森」も)読んでいただかないことには始まらないのです。制約が多くてすみません。

参考リンク:『われ思ふ ゆえに…』・1月9日「もうひとつのセックス(後編)」


 たぶん、この世界のどこかに「もうひとつのセックス」というのがあるのだと僕も思っていました。
 それは、生きている寂しさを埋めてくれるもので、あたたかくて、せつなくて、後腐れのない。
 最初にあの場面を読んだとき(僕は高校生で、確かに「ノルウェイの森」は、ひどくせつないポルノ小説だったような印象があります)、僕もあの場面で心がざわざわしました。
 恋人と戦友(みたいなものだよね)を失った2人がレイコさんのギターで「お葬式」をする光景は、見たこともないにもかかわらず、今でもこの眼で見たことがあるような気がします。

 大学生になったら、あの小説のようなことが僕にも起こるのだろうか?
 そんなことも考えていました。
 ある先輩は、「夜の街のバーのカウンターで飲んでたら、そんなことも時々あるさ」と僕に言いました。
 ある後輩は同級生の彼女である後輩の家に勉強を教えに行ったとき、「その場の勢いで」コトに及んだそうです。
 残念ながら、僕にはその手の「ゆきずりの寂しさを埋めあうセックス」の経験ってやつがなくて、そういうのはオトコにとっては意外とコンプレックスだったりもするのですが。

 「ノルウェイの森」のあの場面、主人公のワタナベ君とレイコさんが「あれ」をやったシーンについて、高校生の僕は、「ワタナベ、恋人の『葬式』のあとに、他の女と寝るのか!」とムカつきましたし、レイコさんの節操のなさもちょっと許せませんでした。
 まあ、当時から「直子のお葬式」が終わったあと「じゃあ」と2人がガッチリ握手して別れればいいのか?と自問してみると、それもなんとなくおさまりが悪いなあ、とは感じていましたが。

 今では、「あの2人は、それしかなかったのかな」なんて納得できる気はします。
 でも、その一方で、そういう「もうひとつのセックス幻想」みたいなもので、どれだけたくさんの人が傷つけあったり、「違うなあ…」と落胆したりしているのだろうか、とも思うのです。
 そして、そういう「もうひとつのセックス幻想」で、性病やエイズをうつされたり、子供ができたりしてしまう例のほうが、本物の「もうひとつのセックス」よりはるかに多いのではないでしょうか?

 「ノルウェイの森」では、「子供ができたら恥ずかしいから」と言いながらレイコさんは避妊しませんが、もし本当に子供ができたり、性病がうつっていたりしたら、本当に安いポルノ小説だしね。
 残念ながら、現実というのは、どちらかというと「安いポルノ小説寄り」なのですが。

 ところで、「愛のないセックスは、気持ちよくない」と思いますか?
 確かに、「愛のないセックス」そのものは、「愛があるセックス」より、気持ちよくはないかもしれません。
 でもね、人間は「愛のないセックスをしてしまうワタシ」に心地よく酔うことだってできるのです(こういうのは、人それぞれだろうけどさ)。

 「もうひとつのセックス」なんて、たぶん虚構の中にしかないのです。
 現実というやつは、翌朝になって「妊娠してないかな?」という不安だってあるし、いろいろ後腐れだってあるかもしれません。行為の翌朝に化粧の剥がれた女の子の顔やオトコの鼾の音に幻滅することだってあるでしょう。 双方にとって完璧な「もうひとつのセックス」なんて、ありえないんじゃないかな、なんて。


 ほんとはね、「じゃあ、『本来のセックス』って何だろう?」という気もするんですよ。
 単に、物理的な性器の交合によって、快感を感じる脳内物質を放出しているだけなのかもしれない。

 セックスに意味を見出すことなんて、人間の幻想。
 寂しいと感じることも、寂しさを埋めようとすることも、人間の幻想。
 生きることに意味を見出すことなんて、人間の幻想。


 それでも、この幻想から離れられない。



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