マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

何かを「伝える」ってことは、本当に難しい。 - 2003年08月16日(土)

 何かを伝えるってことは、本当に難しい。
 たとえば、僕の虫歯の痛みをあなたに伝えようとしたとしようか。
 もちろん、痛みそのものを感じることはできないから、僕は言葉で(あるいは体の動きで)その痛みを伝えるために努力することになる。
 「頭の芯に響くように痛む」とか、床を転げまわってみたり、とか。
 しかし、残念なことに、その痛みというのは、絶対に100%の形では伝わらない。そもそも、虫歯の痛みを体験したことがない人だっているはず。

 自分が38度の熱に苦しみながら仕事しているのに、周りの人間は(自分から考えると)冷淡に「頑張ってね」とか「だいじょうぶ」と形式的な言葉をかけるくらいのことしかしてくれなかった、なんて経験は、たぶん誰にでもあるはずだ。
 もちろん、そういう痛みの感覚が、まったく減衰することなしにこの世界を伝播していくようなことがあれば、まさにこの世は地獄だと思うけどさ。

 そういえば、他人に何かを相談するのが好きな人、というのがいる。
 僕は、あんまり誰かに何かを相談しようとは思わない。
 所詮、「伝わらない」し「相手も迷惑なんじゃないだろうか」と思うからだ。ひょっとしたら、世界の大部分の人々は、僕よりはるかに感情移入の能力が秀でているのかもしれないが。
 消費者金融のCMに「みんなお金の話になると、相談に乗ってくれないのよねえ〜」ってのがある。
 あれを見て思うのは、むしろお金の話のほうが、相談に乗りようがあるんじゃないかと感じるときもある。
 「貸す(もっとも、ああいうタイプの人間に「貸す」というのは、返ってくることを期待すべきではない)」か「貸さない」か?
 それは、クリアカットに結論が出せる。

 8月15日は、58回目の終戦記念日だった。
 多くの人が、戦争のことを伝えようとしてきた。
 でも、その戦争の痛みも、きっとこの世界でどんどん減衰していっているのだろう。
 そもそも、人間は「痛み」を知ってはじめて「痛くない」という状態を認識するようなところがあって、「戦争」を映画や文学の世界で体験したことのない僕らが、「平和」というものを認識しているかどうかは、非常に怪しいものだ。
 それでも、世界には戦争の悲惨さを伝えようとしている人たちが、まだまだ沢山いる。

 最近テレビを観ていて、驚いたことがある。
 アメリカの空爆で足を失くしてしまったイラクの若者が、取材に来たテレビのクルーに向かって、「俺をしっかり撮ってくれ!」と言った場面に。
 障害を持った自分の体を他人に晒すなんて…と正直、思った。

 でも、それはきっと、「伝えようとする」人間の姿だったんだろうなあ、と今は感じている。それは、彼自身の戦争やアメリカへの憤りなのかもしれないし、多くのものを失った人間のせめてもの自己表現の手段なのかもしれない。
 いずれにしても、彼は、何かを伝えようとしたのだ。
 自分のボロボロになった姿をさらして。
 テレビを観ていた人たちに、彼が伝えたかったことが、どのくらい正確に伝わったかは、僕にはわからないけれど。

 これだけ「コミュニケーションの重要性」というのが語られるのは、逆説的に言えば、人間が常にコミュニケーション能力にトラブルを抱え続けている生き物だということなのだろう。
 伝わらない、でも伝えたい。
 言葉じゃ伝わらないけれど、他の手段を自分は持っていない。
 そんなジレンマを誰もが抱えながら誰もが生きている。
 「それでも伝えようとすること」が、たぶん、「生きること」なんだろうと思う。

 しかし、こういうふうに書きながら、きっとこの内容も、僕の思ったことは伝わっていないだろうなあ、という気がする。
 それは、仕方がないことなのだ。
 告白して振られたほうが、まだ気持ちの整理はつく(ことが多い)。
 その一方、こんな偉そうなことを書いている自分と現実の自分のギャップに、ものすごく恥ずかしくなってしまったりすることもあるんだよなあ。

 何かを「伝えようとする」ってことは、本当に難しくて恥ずかしい。


 
 

 
 


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