マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

長野県知事選の結果についての茫洋とした不安。 - 2002年09月02日(月)

長野県知事選では、田中康夫前知事が、ダブルスコアの大差で圧勝した。
「長野県民は、田中県政を支持した」というのが大方の評価のようだが、はたしてそうなのか、僕はけっこう疑問に思ってしまう。
 だいたい、今回の選挙については、候補者はみんな「脱ダム宣言」に賛同しているし、政策的な相違はほとんどなかったと言っていい。要は「田中康夫前知事の政治方式をどう評価するか」ということになってしまったのだ。ひらたく言えば、「田中康夫氏は、人格的に知事に適任かどうか?」ということですな。
 結果は、田中氏の圧勝だったから、「長野県民は、田中氏を知事として適格と判断した」という結論になるのだけれど、考えないといけないのは、今回の選挙は「長野県議会の超保守派の利益誘導型古参議員vs旧い体質にイジメラレル田中知事」という伝えられ方をされてきたということだ。旧態依然とした守旧派たちと比較されては、それは圧勝もむべなるかな、僕だって、どちらか選べといわれたら、田中氏に投票するような気がする。
 田中真紀子元議員への国民の支持があまりに強いのにも、かなり驚いていたのだが、これも、多くの人にとっては「悪いことばっかりしている、エリートの外務官僚にいびりまくられるかわいそうな人」という「エリート官僚vs田中真紀子」というわかりやすい対決の図式にされてしまい、みんな、それなら真紀子さんを支持する、と思ってしまったのではないか。
 
 しかし、少なくとも民主主義を標榜している組織の首長には「調整力」というのは、不可欠なのではないだろうか?妥協する、という言葉はイメージが悪いけれども、なんでも思うままにしようとする学級委員なんて、みんなから嫌われるだけだろう。自分の意志や言葉が伝わるように努力をすることや異なる意見も包容しつつ舵をとっていくことも必要だ。真紀子さんが外務大臣を辞めさせられたのは、イジメラレタわけじゃなく、その役職に見合った能力がなかったから、だと思う。

 オウムのなどのカルト宗教の洗脳方法のひとつとして、「徹底的に2者択一を迫る」というのがある。「もうすぐ、審判の日がやってきます。あなたは、うちに入信して永遠の天国を生きますか?それとも、入信しないで地獄の業火に焼かれて苦しみますか?」と選択を迫るやりかただ。
 そりゃ、僕だって「天国に行きま〜す」と答えてしまうだろう。が、ちょっと待っていただきたい。
 現実には入信しないからといって、地獄の業火に焼かれるとは限らないし「入信もしないし、地獄の業火にも焼かれない」という選択肢もあるのだ。だが、それは明示されない。
 もっと至近な例を挙げれば「私と仕事とどっちを選ぶの?」という問いに対し、僕らは「仕事」か「あなた」かのどちらかを選ばなくてはいけないと感じるだろう。でも、現実的には完全にどちらか一方を取るなんてことは不可能だし、どっちもそれなりにうまくやっていくことだって、可能な場合がほとんどなのだ。

 今回の選挙は、不幸なことに投票するとしたら「守旧的な利権地方政治家」か「民主主義を標榜する似非ムッソリーニ」のどちらか一方に投票しなければならなかった。
 でも、今後は「選択肢は、けっして、その2者択一なんじゃない」ということを頭に入れておいたほうが良いように思う。将来的には、田中知事でも今の県議会議員でもない、先進的で、調整能力にもすぐれた政治担当者、という選択肢もありうるし、そうであるべきだと思う。
 
 僕たちが「過去の歴史」として学んできたことは、その時代時代にとっては、リアルタイムに起こっていたことだ。「ドイツ人はバカだったから、ヒトラーを選んだ」というのは、今から俯瞰して考えることであって、その時代を生きた人にとっては、なんらかの必然性があったことなのだ、きっと。
 最初は、単なる演説の面白いオッサンだと当時のドイツ人も思っていたのではないか、と。
田中知事=ファシスト、ではないとは思うけれど、劇場型政治というのは、どうも危険な気がしてならない。もし、田中知事が有名人でなく、テレビで好意的にとりあげられていなかったら、果たして、こんなに圧倒的な支持を得られたかどうか?そして、こういう風潮が、ほんとうのファシストを生む土壌になりはしないのかどうか?
 


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