Comes Tomorrow
ナウシカ



 日常と狂気の間

聞いた話ですが、戦後、精神を病む人は、日本人よりもアメリカ人が多かったとか。
日本人は戦時中は、それこそ一蓮托生って感じで、誰もがお国のため、天皇陛下のためと一丸となって戦っていたみたいですが、アメリカ人になると、戦争シュミレーションゲームとかで、人を攻撃することを麻痺させていったり、シゴキとかで身体的にも麻痺させていったりして、良心や信条というものを無くさせていって、戦争に向かわせたと。
だから戦後、それがトラウマになって病む人が多かったと。

その点、日本はあれだけ一丸となって、天皇陛下万歳!と言いながら戦っていた呪縛は、戦後はあっさりと解け、逆に天皇憎し、日本最低!となったり、自分に責任はないと人を殺してしまった罪悪感に苛まれる人も、アメリカほどは多くなかったと。

アメリカ人の中にはキリスト教などの宗教的観点から、人を目の前にすると銃を打てないという人が結構いて、それをどうやって殺人マシーンに変えるかというところで、ゲーム感覚にしてしまったり、恐怖心を与えて考えられないようにしていたそうです。

日本は、自分の意志は殺してでも、体制に従う国民性があったし、また天皇・上官の命令は絶対というところで、自分の意志ではなく、命令されたからやったという感覚で殺人マシーンになったと。
いわゆる単なるロボットですね。
役割を終えたロボットは、心が痛むこともなく、また普通の日常に戻っていけるという…
ある意味、人を殺していて精神が病まないというのは異常だそうです。

だからなのかな、日本ではあまりデモとか暴動とか、そういう革命運動が起こりにくいのは。
自分の信条や意志よりも、体制に従うことを良しとしてしまう。

私、以前、戦争体験をした日本兵の従軍日誌(日記)を書き移したことがあるんですけど、ほんとに淡々と書かれているというか、その文章に全然人間らしい感情表現が載ってなくて、どこかの宗教団体の決意発表や活動報告みたいなノリで書かれているんですよ。

敵の死は、まるでそれが人の死ではないみたいに成果報告として数だけが書かれていて、味方の死は、同志の死を悼む感じで書かれていて、次は自分の番か?でも使命を果たさなくてはいけないみたいな決意文で締めくくられているんです。

人間らしい表現があるなぁ〜と思えば、それは食料が手に入らなくてお腹が空いたという話だったり、水がとにかく欲しい、このままでは戦う前に死んでしまう、これではお国のために死ねない、とにかく何とか水を手に入れなくてはという表現だったり。

私は書き写しているうちに、人を殺しているという感覚が全然ない文章だなぁ〜本当にある日の日常…まるで会社の日誌でも書いてるような感覚で書いてるよなぁ〜と空恐ろしくなりました。
戦争映画で観るような、おどろおどろしい感じが全くないのがとても不思議でした。
戦争って、いったい…

確か、アイヒマンの実験でしったけね?(服従の心理―アイヒマン実験・ミルグラムの実験
絶対逆らえない権威に対して、理不尽な命令にどれだけの人が従うかという実験(死に至らしめる程の電流を人に与えること)
宗教など、何か思想や信条がある人は、その命令に従うことを拒んだけど、普通のどこにでもいるような善良な人々ほど、最終的には命令に従い、越えてはいけない一線(殺人を犯すこと)を容易に越えてしまう。

最初は悩み躊躇いながらも、最後は笑いながら致死電流を人に与えていく(こういう場合の笑いは、過度なストレスによって引き出されるみたいですね)
人の深層心理というのか、行動パターンというのか、考えれば怖いものがありますね。


2007年07月25日(水)
初日 最新 目次 MAIL


My追加