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■ 『宗教のすすめ』
あるblogのコメントに書いたことですが…
『宗教のすすめ 幸福に生きる力として』第三文明社の中に、こんなのがありました。
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本当の友達は、一日に4回も5回もメールのやりとりをしないと関係が保てない人ではないのです。 普段は離れていても、その存在を思うだけで心の支えになるような人が友達です。 存在そのものが、自分の勇気を奮い立たせてくれる人です。
著名なドイツの現代思想家(ベンヤミン)はこんな風に言っています。 「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でもなく翼でもなくて、友の足音だ」
友達とは、あいつに笑われたらムカつく、だから頑張ろうではなく、あいつも頑張っているから自分も頑張ろうと、自然に思える存在です。 人はこうした友達の存在が心の中になければ、不安に押しつぶされてしまうでしょう。
そして今は、残念ながら大人も子どもも、仲間はたくさんいても友達はいないという人が多くいます。 受け入れ、受け入れられるという心がなければ友達はできません。
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私もこのような存在になりたい、ならなくてはいけないなと、少し反省しました。 悩んでいる人が求めているのは、そんな友の声なんだと思います。
役を演じず、ありのままの自分を重んじる時、それは他の人にも向けられるんだなと、最近感じます。 それがわからず、もがいた時期がありました。 それで頑張れる時もあるけど、それは決して長続きはしない。 自分という存在を尊いものと見れず軽んじているから、そのまま潜在的に人にも向けてしまい、不本意ながら結果的に人を軽んじるということに繋がるのだろう。
不安定な自信と不安の狭間で、必死に努力しても、どうにも抜け出せない…そんな時に悩みぬいて病気になってしまうか、それとも自己防衛反応として思考停止になるか、それは紙一重なのかもしれない。
病気になってしまうこと…悩みから逃げないゆえの心と体の葛藤なのかな? 思考停止になり、多幸感を感じながら生きている人もいるけど、それはそれで知らない方が幸福なのかな? 私は不幸でもいいから、心が痛んでもいいから、問題から目をそらさず、自分が病気になってしまいそうなぐらい悩みぬいて、最後には真実に辿り着きたいな。
その過程が幸福ということのような気がしてきてる。 あれだけ幸福になりたい、なってみせる、なれるかな、ああ…苦しい…だったのに、今は静かに受け止めてる。 完全に幸福でもなく、かといって完全に不幸でもなく、だけど穏やかな気持ち。 両手を広げて、目をつぶって、空を飛びたい気持ち。 最期って、そんな感じなのかなと、ふと想像なんかもしたりして… これはきっと『風の谷のナウシカ』の影響だ!
いつも思うのは、あの『ナウシカ』の名を私が語って申し訳ないということ。 だから逆に、あまり『ナウシカ』のことは語れない。 いつも触れられたりするんだけど…
ああ〜今日はなんだかダラダラ書いちゃった! 明日は飲みまくるぞぉ〜!
2006年02月04日(土)
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