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■ 所詮
人の気持ちなんて、よくわかんないものだ! 本当の心は覗けない。 でも、人はどこかで、他者を信じたいと思って、自分が想像するところの他者の気持ちとやらを思い描く。
私は、ひねくれ者なので(私の気持ちが他人にわかって、たまるかよ!)という気持ちに時々なる。 そうだから、私は他者の気持ちとやらも、いろいろ分析、想像してみても、所詮はわからないもんだし、理解の範囲は超えてるだろうなと思ってしまう。
それは、ある意味、正しいのか? わからないけど、自己コントロールに躍起になる。 自己中と言われれば、それまでだけど、私は(自分はこうする、自分はこう思う、自分は…)ということを大切にしている。 他者の出方によって、大きく自分の気持ちやら行動やらが乱されるのが嫌い。 こういうと誤解されるかもしれないけど、ここでは他者のことは縛らないし、何かを強要もしない。 (あなたがどうであれ、私はこうするけど、あなたはどうする?)というスタンスで、他者に選択の自由を与える代わり、私の気持ち、これから取る行動などを宣言する。 いけないかもしれないけど、その場で言い切ってしまう。
どうしても人は縁に触れ、良くも悪くも影響を受ける。 それはわかってる、いいことであることもわかってる。 でも他者次第で状況が変わることで、自分が心乱されるとしたら、それはあまり好まない、特に悪い結果はね。
説明するのが難しいけど、どっちに転んだとしても、私は自分によって、自分の行動において、物事を変えていくということに神経を集中させる。 変えられない事柄でも、目の前にある現実は、自分によって引き起こされたもの、または、あらゆる原因で必然的に起こったこと、だから、自分次第でどうにでもできるし、どうにでも捉えることができる、結局は自分次第だと開き直る。
そのように、長年に渡って訓練されてきたので、自己コントロールには長けてるんじゃないかと、自分で自分のことを思う。 変わらない親、振り回される自分。 どんなに心を砕いても、どんなに努力しても、それは一瞬にして無に帰す。 想像し難い形で、こっぱみじんにされる。
そこから逃れるには、どうしたらいいのか? …そうだ、そんなところに自分の身(心)を置かなければいいんだ! 他者に崩されることのない、縁に紛動されることのないところに、いればいいんだ! そういう風に学習してしまった。 いいのか悪いのか、こういう強さを身につけてしまった。 親に鍛えられた。
あの頃に比べると、随分自由になった。 自分を取り巻く環境を、ある程度コントロールできるようになったし、私は気持ちを切り替えるのも上手だ! 本当は引きずってるのかもしれないけど、スパーンと切って捨てるのを難なくやってしまう。
ああ〜また走り出した。 止まってられないんだ! 思ったらすぐ行動、できる時にすぐ行動、できなくてもすぐ他の方法を模索して、必ず進むべき道を探し出す。 悩んでられないんだ、感情的になってられないんだ、そんな暇があったら、何かする。 そうでないと、私の人生消えちゃう、そんな危機感があるのかもしれない。 こんな生き方、ダメなの?どうなの?
他者によって不幸になるのは認められない。 他者によって幸福になるのは有難い。 自分によって幸福になるのは素晴らしい。 自分によって不幸になるのは自己責任。
でも、あの尼崎の脱線事故は、明らかに他者によって不幸にされたケース。 ああいう場合はどうするのか? 私だったら、どうする?どう生きる?
自分が、他者によって不幸を与えられたら? 他者の痛みや苦しみを、少しでも取り除き、共に泣き、他者を少しでも幸福の方向へと支え、励まし、他者を幸福にすることで、自分の幸福に代える。 他者の幸福が、自分の幸福になる。 結局は、他者によって不幸にされた自分は、自分によってまた幸福になれる。 どっちに転んでも、幸福になれる。 辛く長く険しい道のりでも、誰人も幸福になれる。
所詮、自分は自分なんだ! 誰がどうであれ、何がどうであれ!
2005年05月07日(土)
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