NYA [HOMEPAGE]
NYAの思うところ

2003年02月16日(日) 前向きさについてよく考えた一日

今日は、雨。寒かったですね。友達と渋谷のBunkamuraザ・ミュージアム(ザ・って?)での「メトロポリタン美術館展」をみてきた。ものすごくひさびさに、美術展を見にいった。東京に来てから10年以上になるが、あまりにも多くの人で混雑しているようなので、あんまり足を運んでなかったのだけれども、無性に実物を見たくなったのでした。地下鉄で通勤中壁の広告でモディリアーニの裸婦絵にくらっとしてしまって。ていうか、モディリアーニって女の人の肖像画ていうイメージしかなくて、そうか裸体も描く人だったんだ〜と意外に思ったりもして。。。

実物は結構赤みが強いな〜と。そして、どの絵も離れて全体のバランスとして見るものなのだな〜と今さらながらに思ったりして。。近くに遠くに見ながら画家のエネルギーをもらいました。ミロは今でもかなりいけてるかもしれないと思った。ぶっとんでるけど今の気分になじめそうな感じ。とにかく画家の生み出した絵を見にいってそのパワーをもらって嬉しくなりました。なんでもそうだけど(画家の有名無名関係なく)生み出された物にはなんらかのエネルギーが吹き込まれてる気がする。。

そういえばこの間、親に猫お守りと一緒に、お店で売れ残っていたマフラー(私自身が気に入ってないやつ)を送ってあげた。今日、電話がきて、猫のお守りと一緒に送られてきたので、中に入ってたマフラーを猫用の何か(?)かと思ったらしい。一応、人用のマフラーだからと教えてあげたのだが、その後2時間後ぐらいに電話がかかってきて、マフラーがとってもあったかいというのだ(鹿児島弁でぬきー!という)軽くてあったかくてこれは何でできているの〜?紙ね〜?ていう感じだったので、フェルトなんだよ、ちなみに手作りだよと教えてあげた。母親は興味津々でした。ここ数年、絵手紙に凝ってて2、3日前も投稿した絵が地元の新聞の絵手紙コーナーで採用されたとのことで喜んでいたが、そのうちフェルトもおもしろいね〜と言い出すかもしれない(どちらかというと父のほうが絵が上手で母は下手だったのに)何を言いたかったかというと、ただ母親の反応がおもしろくて、お世辞じゃないだろうし、素直な感想でうれしい気分でした。金銭的・社会的には親孝行全くできてないので、そういう小さなことでしか返せてないですね。ほとんど肩たたき券のようなもの。。。

話しが前後したが、美術館では、その後モディリアーニの裸婦絵の複製(A4サイズ)を購入した。仰向けに寝てもバストがありウエストは細くおしりから足のラインは丸みがあり、完璧でしょう、ほんと。なんて。今「体が一番」思考になってるのでイメージトレーニングに利用させてもらいます。意思を明確に。。。。。なんて。

美術館を出ると、雪でびっくり、寒いなかどこか落ち着ける場所を探したが、最初のお店が一杯で入れず、それから少し周辺を歩きまわったらシフォンケーキと紅茶のおいしそうな有名そうなお店があったのでそこに落ち着くことにした。メープルシフォンおいしかったです。友達とは近況や男話しなどいろいろ話して、結構長居しました。その後は、安い定食やさんで私は唐揚げ定食を頼み、またそこでも話しこんだのですが、私も友達もいろいろ変化する時期にあるのかな〜とちょっと思ったりもした。前向きに周りや自分とかかわっていくことの大切さを今さらながらに感じたりしたな〜。。

昼間の雪雨のせいか、空が澄んでたからかもしれないし、満月だったからかもしれないけど、月が真っ白にクリアーに光っていて純白の真珠という感じだった。厳密にいうと真珠は少し色があると思うが、純白さというイメージが真珠を連想させたのかもしれない。二人して綺麗だね〜と感動しながら帰路についたのでした。

今、パルマ戦が終わったところだが(ほとんどBGMです)、ネット情報によると、レッジーナは下位コモに大差で買って、中村もアシストしたとのこと。ようやく形になってきて安心してみれるようになっているみたい。。ただ中村の動きはすごくきれてるという感じはなく、途中ばてている感はあるみたいなのだけれども。。現時点では降格圏から脱せられるのかな。ほんと1試合1試合気を抜けないですね。。。ところで、中村をパルマに出して、ジャパンマネーで福西をとるという記事をみたが、私は福西も結構好きなんだよな〜。あの淡白さ、サラリーマンぽい常識があるような感じがする(プレースタイルはどうだろう、ミドルとかも打つんだっけ?ボランチの位置なのかな?忘れた)いやあ、おもしろいこと言うし結構好きですね。そうか、福西とかでも海外に行くこともあるってことか(失礼?)小笠原はどうなんだろう。。アントラーズは噂だけで誰も海外にいってない、、ような気もするし。。あっ、いたゲンク鈴木!今、どうしてんのかな?

今日はいろいろ書いて話しが飛んでるが、とにかくいろんなものごとの成りゆきを見守りたいと思う。起こったことの責任というと大袈裟だが、誰か他人のことということで切り離して考えず、自分のこととして感じれるようにしたい。人間のこうありたいという意思というのはいろんな流れを変えていくものだと思う。さわやかな希望をもって、見守り続けていくことが今の自分のできることなのだろうな〜。(抽象的ですんません)


 < まえ  ここ  つぎ >

My追加