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耳と聴覚と脳と私
2009年07月19日(日)

仕事から帰った夜に、ひさびさに音楽を聴いてみる。
能動的に音楽を聴くのは、今年、温かくなってからは初めてだ。

普段はどんな音楽を聴くのかと聞かれ、「持病の都合で、音楽鑑賞はできないんです」と言ったら、目を丸くされた事がある。

正確には、べつに不可能ではない。ただ、実質的にできないでいる。
音楽を聴くと頭が疲れて頭痛がひどくなる事があるので、
社会人になってからは体調のいいとき、それも
「次の日、仮に寝込んでも大丈夫な日」に限定しているというだけの話だ。
だから休日の前日でなおかつ体調のいい日にしか聴かないのだが、
ここしばらくは常に急ぎの仕事を抱えていたか体調が悪かったのだ。

音楽を聴くと脳が疲れる。
脳が疲れやすいのに、聴覚がやたら敏感なせいだろう。
耳がメロディをひろうと即座に音符に変換されてしまい、
頭の中に無駄な楽譜がばさばさっと詰まれていく気がして邪魔なのだ。
それは、スペックの低いパソコンでWebサイトを見ていたら、
キャッシュがたまって動きが悪くなってしまった時の感じに少し似ている。

せっかくなので音楽を聴こうか、ということで選んだのがなぜか
「サントリーウーロン茶のCMソング集」というコアなものだった。
ぜんぶ中国語だ。何て言ってるかさっぱりわからない!
でも、それがいい。言語情報が蓄積されないほうが多分ラクだ。
(英語の曲も、わかる単語があるのでひろおうとして疲れてしまう。)

で、自分も作業しながら聴いているうちに、なぜかハモりのパートを自然に歌ってしまっている。
前世紀、合唱部に所属していた頃には、メゾとかアルトといった主旋律じゃないパートばかり担当していた。その名残でいまだに、ボーカルをソプラノに見立ててハモってしまう癖がある。

自然に歌いだす喉と、歌うための呼吸を反射的に支えだす腹筋、主旋律と伴奏を聴き取ってしまう耳。
対する脳は、ハモりパートのメロディを算出しながらすべての楽譜を受け止めていて早くもしんどそうだ。

体や感覚器には色々な癖がつくもので、そこにはまぎれもなく人生が刻まれていく。
歌とピアノを10年以上続けていたという事実の名残が、耳と聴覚に癖となって染み付いている。
「この人、いい表情をしてきたんだなあ」とほれぼれ思うような皺がある老人が美しいように、反射的に出る癖や咄嗟の連想が、美しかったり面白かったり優しかったりするかどうかが、人生の豊かさを少なからず決めているんではなかろうか。よりいいものを、目的を、作法を、なるべくたくさん刻み付けるために、土台となる体と神経とを穏やかに調和させていきたいものだ。