ある事情からまた食べ物が食べづらい状態だったのだが、 今日、ためしにまた※を食べた。 パンでもパスタでもない、※をね。やっぱ日本人は※よね。 たまに食べるとひとしお美味しいものがあるように、 たまに聴くと音楽もいいものだ。 音は、脳に意外な方向から刺激を与えてくれる。 でもやっぱり、五分ぐらいでもういいやとなってしまう。 頭の外側にちょっとキツイ輪ゴムがはまったみたいになって、 耳の近くの血管がドクドクと、痛い物質が浮かんだ血液を運んでくる。 今年の夏は念のため、音楽をひかえめにしておこう。 また音を煙たがっている、それは残念な兆し。 思い切り歌を歌いたい気持ちが膨れ上がっても、耳の奥がそれを拒む。 言葉が意味と結びつくのがいつもより遅く感じる。 鼓膜と脳の間で何か起きているこの感覚は、 ああ夏が来たなあという感じ。 浴衣でも風鈴でも花火でもない、これこそが私の正直な季節感なのだ。 十年同じ国で暮らせば四季のうつろいを肌が覚えるように、 同じことが十回も続けばそれはしっかりとした思い出になる。 「ちょっと体質が弱くなった」というささやかな事件でも それなりに見える景色が変わったわけだから、 世の中には、もっと色々な感覚で夏を迎えている人がいるはずだ。 「他の人にはきっとこう見えているよね」と 予測しきれるはずもない天気予報をしながら 生きているようなところが私にはあるけど、 もしかしてほんとは、肉眼で空なんて見上げることのほうが 大事なんじゃないだろうかと、最近よく思う。 誰だって生身の感覚はそれぞれにいびつで、 「他の人ってきっとこうだよね」ってオリコンの上位の曲を聴きながら みんなで妄想しているだけで、 「他の人」っていうのは想像上の生き物なのかもしれない。 あるいは、実在してるかもわからない「他の人」の頭の中を覗きすぎて、 自分自身の生身の感覚をずーっと前に失っているんじゃないか。 やっぱり「誰かにとって良いもの」を探したくて、 でもそれは、自分の目なしには見つけることができない。 どんなにピントのぶれる目でも、どんなに疲弊した頭でも、 そんな己の物理的・心理的状況のすべてを正直に受け入れた上で とにかく自分の目で見るというのは、 単純なようでいて、とても難しい手続きだ。 私のこれからの十数年は多分、 どんな時もそれができるようになることのためだけにあるんだと思う。 |