今日はやけに寒いなー。と思っていたら、天気予報では 「本来通りの12月の寒さとなりました」なんていうナレーションが。 こっちが本来だったんだなー。 昔、移動販売の車に乗ってうちの近所に回ってくるおじさんで、 「飴のおじさん」と私が呼んでいた人がいた。 でもその人が売っていたのは、浅蜊である。 浅蜊を買った家の子供に飴をくれたりしていたので、 私にとっては「飴のおじさん」だったのだが、 本当は「浅蜊屋のおじさん」だったのだ。 そうかー、私らが今まで感じていた2004年の12月は、 浅蜊屋さんがくれた飴みたいなもので、本当の品揃えじゃなかったのだ。 これからは浅蜊のように冬がやってくるかもしれないんだな。 なんて書くと、ちょっといいダシが出そうな感じがするが。 しかしそんな想い出はさておき、私は浅蜊はちょっと苦手だ。 こないだ、某飲食店で初めて食べてみた。 最近は海老もホタテも浅蜊も、ちょっとずつ食べてみている。 「ほんの少しずつだが、確実に私は大人になっているのだなあ」と 自画自賛してしまうのはこんな時だ。 まだ私が知らない味覚の世界は、普通のファミレスでもたくさんある。 今後も、栄養がありそうなものから、一つずつ挑戦していく予定だ。 これでいつか、牡蠣が食べられるようになったら本物だなあ。 嫌いだった食べ物を好きになれるかどうかは別として、 まず食べられる、許容できるというのは大切だと思うようになった。 「同じものを一緒に食べることで、ちょっと親しくなれる感じがする」という 類のコミュニケーションの機会が、大人になるほど多いことに気付いたからだ。 確かに、誰でも食事はするから、 忙しい人にとっても便利なコミュニケーション方法かもしれない。 私は、友達と大勢で外食するとき、 一人だけ全然違うメニューをオーダーしたりするタイプである。 それで、一人だけ早く来すぎちゃったり全然来なかったりして、 ズレたタイミングで食事することになったりする事態になり、 さらにその状況を楽しむタイプである。 違いを楽しむ人のネスカフェ(?)。 でも最近では、ときおり自然に周りと同じものを頼んでいることがある。 何も考えずにオーダーしてから、はっ、とする。 私がみんなと同じものを食べてていいのか? 常に奇をてらう気持ちを、生きざまを忘れちまってやしないか? ひょっとして私、普通の人になってしまったんじゃないか?という、 非常にどうでもいいジレンマがうっすらと生まれては、 食べながら「まぁいっか」と消えてゆくのだ。 普通の人になるのを怖がっている時点で普通の人なんじゃないか、とも思うし、 本当に普通の人はこんなことでは悩まないのかな、とも思うことがある。 そもそも普通っていうのがなんなのか、さっぱりわからない。 「普通」のイメージは、些細な変化でがらがら崩れるような脆いものだろうし。 で、人との食事をコミュニケーションと捉えられるようになってから、 こういうジレンマもなくなった。 これも、人と同じものをオーダーできる、という選択肢の広さの賜物だ。 「好き嫌いは特にないっす」と言える大人を目指して、今後も小さく頑張ろう。 しかしどうして、私の周りの人は偏食がほとんどないんだろう? 家族のしつけが良かったのか?学校給食で育ったからか?その両方? 我が家は今でもめったに肉を食べないんだが、 これが普通なんだと昔は思っていた。 普通とは何か?なんて、いちいち気にするもんじゃないのかもしれない。 変な奴は普通にしてるだけで十分に変なのだ。 自分の個性なんて、普通に頑張ってみるだけで勝手に染み出てくる。 だから無理しても意味はないのだ、たぶん。 |