ジューシーフルーツ〜Love&Sex&My life〜
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2006年03月25日(土) 家族を亡くしたとき

これを書くのも、エンピツを見るのすらも久しぶりです。
そんな中、投票していただいたり、読んでいただいたり、
メールを下さった方、本当にありがとうございました。

実は全くの私事で書く気になれませんでした。

秋から仕事で忙殺された日々が落ち着き、
職場でのゴタゴタも解放され、昨年末の休みに入った日のこと。
やっと一息ついたと思ったら母からの電話。
祖母が入院している病院から呼び出されたので、
仕事中だった母の代わりに行ってくれとのことでした。
祖母は糖尿病からくる足の浮腫で、
すぐ近くの総合病院に通院・入院していましたが、
今までにも何度も入院していたし、
なんといっても整形外科だったので、命に別状はないと安心してました。

「大晦日に一旦帰宅する話かな」と
軽い気持ちで病院に行くと
2時間近く待たされ、突然、病状の説明。それでもまだ
「大晦日に帰宅できないのか?」という意味で
「えーっとじゃあ年末年始は…」と聞くと
「ええ、年内かもしれません。覚悟なさって下さい」
と言われたのです。

その後のバタバタ、そして、年内ギリギリの転院。
それでも祖母はまだ意識がはっきりしており、
「お正月、楽しみにしてたのに。紅白のビデオ録っといてや」
とか
「今年は黒豆たけへんな」
(祖母は何日もかかって毎年、お節の黒豆を煮ていました)
とか話していました。
でも、転院した先の主治医も
「精一杯治療はしますが、体中が…」という言葉でした。
腎臓、心臓、肝臓…すべてに異常があったのです。
前の病院での入院や、週に1度の通院はなんだったんだと
本当に訴えようかと思っていました。
(転院先の病院は、偶然にも「いい病院ベスト100」などの本で
取り上げられている病院でした。
だからこそ、年末押し迫った時期に受け入れてくれたのかな。
そして本当に医師・看護師さん共に丁寧な説明と治療をしてくれて
とても感謝しています)

1月3日のことでした。
前日、初詣に行き、祖母にお守りとお札を買ってきていました。
夜になって病院から電話があり、
呼吸が一時停止したとのこと。
病院に駆け付けると、呼吸管をつけられた祖母が…。
何かしきりに指を動かすので
「なに?」と私の手のひらを出すと、
「シヌ」「トツテ クダ」「シヌ」
としっかりとした指で書きました。
「管取ったらあかんのよ!! 死んだらあかん!!」と
泣きわめく私の前で、祖母は麻酔が効いて寝てしまいました。

それから2ヶ月。
いつも仕事で終電近くに帰宅していた私なのに
最初は毎日、仕事が忙しい時は週に3度は
仕事場から1時間少しかかる祖母の病院に通いました。
帰宅して、母の食事を作ったり、家事。
今までも祖母の入院中はそうだったけれど
毎日に近い通院のあとは、ボロボロになりそうでした。
それでも、祖母の意識があるときはよかったけれど、
意識がなく、「私のことわかる?」と言っても
なにも目に映らず、声も届いていない日々には
病室で何時間も泣いていました。。。

普通の家庭の祖母なら、こんな風にならなかったかもしれません。
祖母は、複雑な家庭環境に育った母の叔母にあたる人でした。
あまりに複雑だったため、母が父と結婚し、私が生まれると
祖母も一緒に住んでいたのでした。
生後3ヶ月で復職した母のかわりに、
3年後に妹が生まれるまで、母代わりになってくれたのは祖母でした。

その後、離れて住むようになったものの、
父と母が離婚したあと、またも祖母が母代わりに。
しかし思春期の私は祖母とは毎日大ゲンカしていました。
その後も離れて住んだり、近くに住んだりしていましたが
ここ10年くらいは一緒に住んでおり、
もういい年になった私なのに、毎日のようにケンカしていました。
なにしろ、老人と思えないほど気が強い人だったので…。
私は「ケンカしていたほうがボケなくてすむ」と笑っていたし、
祖母も「張り合いがあっていい」と笑っていたのです。

2ヶ月の間、祖母は話せないながらも
「うん」「ううん」と頷いたり、首をかすかに振ったりできる時もあり、
そんな時は、ずっとベッドの横に立って私は1人で話していました。
「おばあちゃん、私がこんなに優しいと気持ち悪いやろー?」と言うと
ちょっと困ったような顔。
「でも今だけやで(笑)。退院したらまたケンカしよな」というと
「うん」と頷いていました。

年末から、こんな感じだったので
ゴウとは全く会えませんでした。
私が大阪に行く気がしなかったし、
ゴウも忙しいみたいだったから。

でも、先日、大阪出張の機会があり
「ここんとこ、おばあちゃんの調子もいいし
(よくなかったけど、意識がある日が続いていた)
久しぶりにゴウに会いに行こうかな?」と思いました。
ゴウと連絡も取れ、週末に行く事になった翌日。

その頃は嫁に行った妹も週に2,3日は来てくれていました。
仕事帰りに病院に行き、妹と両側から祖母の手を握り、
「手がむくんでるね?」と言うと、
頷きながら、ぎゅっぎゅっと手を握り返してきたので
「あ、でもちゃんと握れるなぁ。
またもうちょっとしたら、前みたいに筆談できるね」というと
うんうんと頷き、
「だんだんようなってきてるなぁ」というと
またうんうんと頷いていました。
「ちょっとずつ、よくなるから頑張ろうな?」というと
また、うんうんと何度も頷きました。
「おばあちゃん、私、今週出張あるかも。
1日くらい来なくても大丈夫やんな?」と聞くと
少し考えて、うんと頷きました。

その日は本当に意識がはっきりしていて、
妹と私の冗談に少し笑ったりもしていました。
1時間近く話して、妹と私の顔を交互にじっと見ているので、
「なに見てんねんな?」と聞くと
なにか口を動かしましたが、もちろん声にはならず、
うとうとし始めたので、
いつもより2時間近くも長く起きていたせいだと思い、
「じゃあまた明日なー。寝ときやー」と言うと
ぱちっと目を開けて頷き、すうすうと眠った祖母。

それが最後になりました。

翌日の朝、病院から電話があり、私たちが着く前に
祖母は逝ってしまいました……


もっともっと優しくしてあげればよかった。
元気なときにもっと一緒にいればよかった。
おいしいものを食べさせてあげたかった。
なぜもっと優しくできなかったんだろう…。

思いがけず、長文になってしまいました。
湿っぽい話を長々とすみません。

それから2週間以上がたちます。
最初の10日間は告別式やらいろいろの手配、
そして、仕事も普通にしていたのですが、
この何日か、全く何もできません。
体の調子も悪く、毎日腹痛と発熱…。
仕事も3,4日休んでしまいました。
3,4時間昏々と眠り、目が覚めては祖母のことを考え、
泣き疲れて、また眠る何日かを送っています。

あ、もちろんゴウには会っていません。
祖母の亡くなった日には、何度もメールをもらいましたが
その後はメールもままならず…。
私も祖母のことは、ほとんど書いていないけど。

「祖母が死んだ」ということだけでなく
家族でいろいろとモメたり、ゴウと会えなかったり、
仕事場でも上司とちょっとモメたり
ってこともあるのかもしれません。

でも本当に無気力ってこういうことなんですね…。

こんな文章を書くのも久しぶりだし
ここに書くべきことではないのはわかっていますが
本当になんだか自分が壊れそうです。

家族を亡くしたとき、
人はどうやって立ち直るのでしょう?
このまま仕事も恋愛も辞めてしまいそうで自分が怖いです。
あれだけ病気と闘って、最後まで頑張った祖母なので
後追いとかはしないけれど、
本当に自分が怖い。

どうしたらいいんだろう…。

なのでしばらく、エロ部門の更新はできないと思います。
それまでこの日記が残っていることを祈って…。












水季 |MAIL

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