ひびき(日々記)
「夢を叶えて 夢になりたい」

2006年09月26日(火) 「言葉」・・・その良心と自己防衛の不自由


僕レベルの脳みそでは
非常に難しい事を書こうとしています(笑)
なのでちゃんとオチる自信がありません、すみません
そしてあくまでこれは私論であって、一般論ではありません
しかも非常に長編です、読まなくていいかもです(^^ゞ
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自分で選び組んだ「言葉」で歌をうたい

媒体を通じて電波の向こうに「言葉」を発し

見ようと思えば世界中からアクセス可能な
ネットの世界で「言葉」を書く

僕はこうして
「言葉」と関わりながら暮らしている




先月僕は自分のラジオで
ある限界と疑問を考える機会に直面した

『放送出来ない言葉がある』

収録以来、その理由を考える日が続いている

いや
厳密には「改めて考え始めた」が正しい




言葉はあくまで言葉であって
本来は善悪を伴わないものだと思う

その言葉は使われ方や状況によって
含まれる使用者の心の向きによって
意味を持たされ聞き手や読み手に伝わる

例えば
僕は「左利き」だ

今でこそ左利きも普通になったが
昭和40年代はまだまだ偏見もたくさんあった

『ぎ○ちょ』

現代ではほぼ消えつつあるこの言葉は
時に何も気にならないまま当時の僕をすり抜けたが
時に傷つける刃になって容赦なく僕に切りかかった

※平成世代なら
この言葉の存在自体を知らないかもしれないな・・・

『ぎ○ちょのくせに上手に書くね〜』

声色や表情や動作も伴わず
単に文字でこう書き記したとき
読み手はどう意味を解釈するだろう

おそらく多数の人達が「ぎ○ちょ」という言葉を
僕を蔑むために使用していると感じると思う

「ぎ○ちょ」という言葉は
その状況と使用した人間によって
僕にとって色んな解釈で作用したにもかかわらずだ

そもそもただの言葉だったのに
そんな印象を多数の人が抱くのはなぜなのか

こんな疑問の芽は僕の中で
早くも18歳くらいから芽生えていた




文字は
声色も表情も動作も
含まれる心情も削がれた
非常に不完全な意思伝達手段だ

現代風に例をあげてみる↓

わかりました♪
残念ですね〜(^_^)
バカヤロー(笑)

♪・(^_^)・(笑)を取り外せば
解釈の仕方でいかようにもなってしまう
もしくは付ける事がさらなる誤解を招くこともある

文字だけでは感情を伝える限界が甚だ低く
実は非常に危険なのだと言うことが出来ると思う

故に
言葉を補足する諸条件が欠落した文字の世界から
「言い換え」や「使用の自粛」は派生したと考えるが妥当だ

テレビやラジオのメディアの発達にともない
その守備範囲はどんどん拡大していく事になり
やがて言い換えや使用自粛を適用された言葉が体系化され始める



『差別用語』(汐文社)という本がある(今はないのかな)



大学在学中に手にしたこの本をきっかけに

僕は図書室や資料室で
そのあたりの本を読みあさったものだ

ある用語がいつから
何をきっかけに言い換えられはじめたか
また使用を自粛され始めたか

その発生、原因、経緯を
躍起になって調べたその結果に僕は

言葉の言い換えと使用の自粛は
差別と偏見の根絶、人権の尊重に根ざしていると知り

その本当の芯の部分は
「不特定多数の人間を傷つける可能性に配慮する」

そう考える人の『良心』にあると考えた

※性器俗称等、猥褻表現の使用の自粛は
これとは別に「公序良俗に反する事が理由」と考えるべき
しかしこれも言論の自由という問題には抵触する


しかしそれと同時に
それらの言葉が「体系化された理由」が
決して良心によるものではないことも知った

僕的にいうなら
その成立理由はメディア側の『厄介払い』だった

かつて差別用語を中心に
個人や団体が抗議や糾弾を繰り返す時代があった

メディアはそれを回避するために
様々な言葉を自主規制しはじめる
過去の出版物や放送作品はそれによって
一部の言葉を言い換えられたり無音化された
または二度と日の目を見ることないお蔵入りになった

自分に降りかかる火の粉を前もって払う理由で
たくさんの言葉が自主規制の対象になった

表現の自由が保障されたはずのこの国の
表現の窓口であるメディアが
沢山の言葉に鍵をかけたということだ




「良心」のもとに始まったはずのものは
いつのまにか「自己防衛手段」に摩り替わり
そのエスカレートは今日でも続いている

使用方法によっては
マイナス使用が可能な言葉や
マイナス印象を与える可能性のある言葉は
言い換えられたり差し控えられている

またその言い換えに紛れるように
いつのまにやら表記を変えた言葉もある

例えば最近
化学調味料という言葉が
旨味調味料という言葉に言い換えられた

これはおそらく企業サイドが
今日の時代背景による印象悪を回避するために
行政に働きかけて言い換えさせた可能性があると僕は思う




大手のメディアが言葉の自主規制を敷いているなか
この時代になってインターネットがその壁を壊した

良心のかけらもなにもない無責任で酷いものもあれば
言論の不自由に抗うために敢えて書き記したものもある

言論の自由を履き違えている負の個人が混ざってはいても
大手メディアが犯せないタブーの切り崩しに
インターネットは一役も二役もかっているのは確かだ




そしてメディアやネットとは関係のないところで
自らの信念をもって言葉に鍵をかけない人達がいる
心の内にあるものを堂々と言葉にする人達がいる

見る人から見れば一見乱暴で無責任かもしれないが
時にその真似の出来ない勇気が感動をもたらしたり
タブーを迂回してきた自分への問いかけを与えてくれる

その度に
考えはしても答えが出せないまま
依然として僕は自らの表現の自由に鍵をかけたままだ

○○○で言葉の一部を伏せる

伏せて書いても意味が分かるなら
伏せる理由などないくせに伏せる

歌詞を書いていても
使えない(使わない)言葉がたくさんある

良心からか?と自分に問えば
自己防衛でしかない臆病な自分もみえる

「使いたくないのなら使わなきゃいい」

そう言ってしまうのは簡単すぎて
考え病な僕の性に合わない未熟な結論だ
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あ〜やっぱり
こんだけ書いてもとりとめがないな〜・・・


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