| 2003年02月11日(火) |
呪(しゅ)という考え(長いです:笑) |
夢枕 獏氏の著作
「陰陽師」
登場する安倍晴明は 「呪(しゅ)により万物は世に存する」と言う
呪の文字および呪のつく言葉(呪文・呪詛など)を 人はおおむね凶凶しいものと解釈するが
国語辞典などで引いてみると
神仏や霊力をもつものに祈って 「災いを逃れよう」としたり 「他人に災いを及ぼすようにしたり」すること
という風に 用い方によって善悪どちらの意味も為し 自分と自分以外の万物に対して 何かの成果をもたらそうとする術と言える
人の「願い」を叶える手段であって 「呪」という文字と概念には 悪や恐怖の意味はもともと付随しない
それでも僕を含めて少しでも抵抗のある人は
例えば 「じゅもん:ジュモン」の仮名に
人を貶める時 まれに自分を貶めたい時は 「呪文」
人を幸せににする時 自分を幸せにしたい時は 「寿文」
なんて当て字をすればどうだろう (当て字好き:笑)
話が大きく横にそれた もどそう
夢枕 獏氏演出の安倍晴明は 友人である源博雅に言う
「そこに存る万物は それぞれ各々の『名』という呪があって 初めてそれがそのものと成るのだよ」
例えば 「人」という『名の呪』がなければ 人は人として世に存在しない
そういう事なのだと言う
この世に存する いや 科学的に証明できなくても 人間の思考の中で 「存る」と信じられている万物は
「名」がなければ 得体の知れないものでしかない
いや違う 得体の知れないものという事さえ 人はそれを「判じる事が出来ない」のだ
子供の成長過程に 両親が子に投げかける言葉は そう考えると呪のオンパレードである
「分かる?パパ、パーパ(^_^)」
お父さんは子供に 自分がパパであるという呪をかけるのだ
子供への呼びかけとともに 自分にも「パパ」という呪は無意識にかかっている
そうしてパパは「パパ」となり そうして子供は「パパ」と判じる -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・ 言葉と切り離せないところに 「文字」というものがある
その成立過程は 言葉と違う道筋を来たものだ
しかし 『字』という音声を伴わない呪によって 得体の知れないものを人に判じる能力を与えている
人間が 現実界で目や耳から得たもの 想像界で作り上げて得たものたちは 言葉と文字によって「何らかの物」と呪される
言葉と文字は 得体の知れないものに理由づけして 人間が理解可能になるよう変換する術なのだ
かみ砕いて言えば 人間の思考範囲内での決めつけである
言葉も文字も コミュニケーションツールとして 対他人との交信の為だけに 存在している様に思いがちだが それだけではない
先の子供とパパの関係に見るように 言葉と文字は意識のあるなしに関わらず 内にある己とも交信するために存する
だから 自分の叶えたい願いや 自分の進むべき道や 自分を律したい時には
それを堂々と口に出したり 文字に記した方がいい
口に出し何度も言う 文字にして何度も記す
その行為が己への「呪」になる 願いに続く揺るぎない下地になる
そんな事をあの小説から 勝手に読み取った僕は
何度も 一生懸命という言葉を口にする 一生懸命という文字を書き記す 一心不乱という言葉を口にする 一心不乱という文字を書き記す
「明日二人でブッ倒れよう!」 相棒とそんな言葉を交わして
僕らはいつも舞台へ踊り出る
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