囚はれのシネマ日記
DiaryINDEX|past|will
ちよつとQuelbol向きではないのでこちらに書きます。 若松孝二監督の『キャタピラー』を観てきました。 戦争で四肢を失つた軍人が軍神と祀り上げられ、しかし 現実には肉の塊として生きるしかない姿を描いた作品です。 キャタピラーとは芋虫のことで、この映画は江戸川乱歩の『芋虫』 と映画『ジョニーは戦場へ行つた』が下地としてあるさうです。
観客は昭和20年代生まれぐらゐの男性、おそらく ピンク映画時代の若松監督作品に親しんだであらうと 思はれる世代が多かつたです。
わたしも『処女ゲバゲバ』とか『行け行け二度目の処女』とか 妙なタイトルの若松作品をかつて観た記憶はあるのですが、 内容はまるで覚えてゐないです。といふことは、あまりにも つまんなかつたからでせう。
しかし今回はかなり期待して行きました。 思へば昭和20〜30年代に街頭で傷痍軍人が義足・義手を 傍らに置きアコーディオンで物悲しいメロディを奏で、カンパ(?) を募つてゐた姿はまだ記憶にあたらしいものです。 この映画に期待したのは、彼ら傷痍軍人の心と体の真実がどう 描かれるのか、でした。
その体の想像以上のなまなましさは伝はつてきました。 「骨になつて帰つてくればいいのに、肉の塊になつて帰つて来た」 というようなセリフが、そのことを端的に物語つていました。 主人公は四肢がなく耳も聞こえず口もきけなくなつてゐるので 身動きもできないままごろんと天井を眺めて暮らし、妻によつて 食欲と性欲を満たしもらうことでしか「生」はないわけです。
それにしても中国でのレイプシーンや妻との性交シーンを これでもかこれでもかと繰り返す必要はあるのだらうか?と 思ひました。戦争が生んだグロテスクな性だと言ふのでせうが 性といふものの本質的な退屈さを思ひ知らされた感があります。 なにかもうひとつ主人公の精神を伝へる方法はなかつたらうか と不満がくすぶります。
といふのも、サーベルを前に勲章をつけ、軍服・軍帽で正装した 四肢のない主人公が、正座、といふより転がらないやうに据ゑられて ゐるシークエンスを予告編で観て、それがこの映画を象徴する ショッキングなシークエンスとして目に焼き付いてしまつたからです。 さういふ、静かにじつと訴へてくる映像もあつて欲しかつたと思ふ わけです。私は寺島しのぶの体当たり演技よりそつちが観たかつた。
やはり若松監督の手法は永遠に変はらず、といふことでせうか。 でも反戦といふより厭戦映画としてのインパクトはかなりあります。
|