女の世紀を旅する
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2007年05月26日(土) 熊井啓さん(映画監督),くも膜下出血のため死去


◎ 熊井啓さん(映画監督),くも膜下出血のため死去


私は2002年に熊井監督の遺作となった映画「海は見ていた」を観て,その江戸情緒たっぷりの人間のドラマに心の底から涙があふれ,感動したことを覚えている。深川の女郎たちの人情を細やかに描いた心暖まる時代劇の秀作で,素晴らしい人間賛歌の映画であった。






 「海と毒薬」「サンダカン八番娼館 望郷」「愛する」などの作品で知られ、日本を代表する社会派映画監督の熊井啓(くまい・けい)さんが2007年5月23日午前9時51分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。76歳。今月18日に東京・調布市にある自宅前で倒れているのを発見され、病院に運ばれ入院していた。葬儀・告別式は故人の遺志で、近親者のみの密葬とし、お別れの会を後日行う予定。

 熊井監督の遺体はこの日午後8時半すぎ、家族が迎える都内の自宅に戻った。新作の準備に意欲を見せていた中の無念の死だった。64年に「帝銀事件 死刑囚」で監督デビュー、新作が記念の20本目になるはずだった。企画も出来上がり、今年に入り撮影所に足を運んで、打ち合わせなどを行うなど動きだしていただけに、突然の死去が惜しまれる。この日、弔問に訪れた奥田瑛二は「監督は『我が人生最高の傑作になる』と話していた。内容は言えないけど、すごい作品」と悲しんだ。


 18日早朝に自宅の敷地内で倒れていたのを見つけたのは、新聞配達員だった。折り悪く、妻明子さん(66)は外出中だった。家族によると、入院後は意識が戻り安定した状態が続いていたが、23日朝に容体が急変、明子さんや長女美恵さんが見守る中、眠るように息を引き取ったという。


 長野県出身の熊井監督は、54年に日活に入り、助監督を経て64年に監督デビュー。えん罪、報道のあり方、差別問題など一環して社会正義を叫び続けてきた。海外での評価も高く、75年のベルリン映画祭で「サンダカン八番娼館 望郷」が銀熊賞、87年には「海と毒薬」が銀熊賞・審査員特別賞を受賞した。01年には同映画祭で功労賞も受賞した。


 誰もが認める巨匠だが、現場では激高することもなく、いたって紳士的だったという。遺作「海は見ていた」(02年)にかかわった関係者は「淡々と確実に頭の中に入っていることを実現していた」と振り返る。また、熱烈な巨人ファンでもあった。負債を背負った日活の再建後第1弾「愛する」(97年)が日刊スポーツ映画大賞作品賞を取った際のインタビューでは、「守りを固めて1点差でいいから勝ち続けて」と、野球に例えてエールを送るなど、ちゃめっ気も見せた。


● 評論家の佐藤忠男さんは「人生をいかにしてまじめに生きるべきかを描き続けた人だった。彼に続く人は、きっと現れてくれる」と話す。熊井監督が映画界に残したものは、映画人が引き継いでいかなければならない。幻になった20作目が、製作されることが望まれる。

●小林専務、“戦友”に「お疲れさま」
 「黒部の太陽」の製作当時、映画界では他社の映画や舞台に出演することを事実上禁じた「五社協定」があり、多くの俳優、監督、スタッフが業界を追われたが、その渦中で同映画を強行突破して製作したのが、熊井啓監督らだった。

● 製作を担当した石原プロの小林正彦専務(71)は「あの五社協定の厳しい中、自分の意志を貫いてよく頑張ってくれました。映画は熊井監督なくしてはできなかった」と振り返る。日活のスター石原裕次郎と、東宝のスター三船敏郎の共演は当時の業界の“おきて破り”。だが、黒四ダム建設という高度成長時代のダイナミズムを描いた作品は、興行的に大成功を収め、大きな社会的反響を呼んだ。

 「また、黒部の太陽のような作品を作りたいね」。2人が最後に言葉を交わしたのは約1年前だったという。約40年前の“戦友”の訃報(ふほう)に、小林専務は「お疲れさまでした。ご冥福をお祈りいたします」と話した。


★ 関係者惜しむ

 ◆栗原小巻(62)「『忍ぶ川』『サンダカン八番娼館 望郷』でご一緒して以来、家族ぐるみのお付き合いでした。日中文化交流協会の会合でお会いする機会も多く、『一緒に写真を撮ろうよ』と声を掛けていただき、記念撮影をしたのが昨年のこと。映画の精神性、芸術性を高めるための努力を惜しまない方で、体調を崩してもワンシーン、ワンカットを丁寧に撮影し、名作を完成させる、そんな名監督でした。大きな喪失感を感じています」。


 ◆奥田瑛二(57)「強烈な監督でした。6本の熊井作品に出演させていただきましたが、愛憎相まって父親と息子のような関係でした。僕も映画監督になったけど『熊井学校』の生徒として、撮影の方程式も応用編も身をもって学びました。溝口健二監督や黒沢明監督と同じく、外国に通用する映画を作り、本道を行かれた監督でした。最後に会ったのは昨年11月。僕の監督作『長い散歩』に対して『お前がいい映画を撮ってうれしいぞ』と言ってくださいました。お褒めの言葉をつづった手紙もいただいたばかりでした」。


 ◆渡辺謙(47)「先日お目にかかったときも、私の海外での仕事ぶりを喜んでいただき『謙ちゃんにと思っている企画が2本あるんだよ』と今すぐにでも打ち合わせしたい風に話してくれていました。気骨と信念をもった、真っすぐな映画を作られる監督でした」。


 ◆寺尾聡(60)「デビュー当時から大変お世話になりました。社会派を代表する偉大な監督でした。まだまだご一緒したかった監督なので、残念でなりません」。


 ◆秋吉久美子(52)「とてもとても残念です。撮影中はとても厳しい方でしたが、真実を真摯(しんし)に見詰め続ける偉大な監督でした。心からご冥福をお祈りします」。


 ◆清水美砂(36)「1年前に今村昌平監督をお見送りしたばっかりなのに、また大切な素晴らしい監督が逝(い)ってしまった。ほんの数年前、サンセバスチャン映画祭(海は見ていた)でご一緒し、豪快に飲み、お話されていらしたのに…。シャープで、ちょっと怖い所が好きでした」。


◆熊井啓(くまい・けい)
 1930年(昭和5年)6月1日、長野県生まれ。信州大卒業後、助監督として日活に入社。松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏 冤罪」などの社会派作品で知られるほか、「忍ぶ川」といった恋愛作品、戦時中の人肉食い事件を元にした「ひかりごけ」など、作品の幅は広い。ベルリン映画祭には7回招待されている。95年に紫綬褒章受章。


カルメンチャキ |MAIL

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