女の世紀を旅する
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2005年04月24日(日) 日韓対立の火種,竹島問題の歴史的背景


日韓対立の火種,竹島問題の歴史的背景    2005/04/24








 中国では先日,北京・上海・広州などで反日デモがおこり,日本の国民を震撼させたが,その背景には尖閣諸島をめぐる対立と日本の国連安保理入りへの反対がある。

一方で韓国との間でも,竹島(韓国名は独島 トクド)をめぐる領有権争いから韓国のマスコミは島根県議の「竹島の日」制定に対して猛反発を示した。

解決が難しいのが領土問題で,日本は今もロシアに対して北方4島返還を要求しており,そのためにいまだロシアと平和条約を結んでいない。ロシアは北方2島を返還するといっているが日本はこれを拒否している。

日本人はもともと農耕民族だったため,領土の問題では妥協しないところがある。土地に対する執着心が非常に強い国民なのである。

こうした領土問題はナショナリズムの火種となるだけに,韓国との「竹島問題」も永続的に両国の政治関係に暗い影を投げかけるのは必至だ。それにしても,竹島(独島)をめぐる対立を知らない日本人が多いのは,日本の貧困な歴史教育のなせるわざというしかない。愛国歴史教育の盛んな韓国では「独島(トクド)」のことは小学生でも知っている。

日本人は歴史をあまりにも知らなさすぎる。歴史を知らないから中国や韓国の人たちと議論しても感情論だけで反発するのである。



Masomi Ise氏が竹島をめぐる日韓対立の歴史的背景を詳述しているので
下記に記載しておきたい。氏は歴史的根拠から竹島は日本の領土だと主張している。




●「竹島? 誰その人?」

 先日、韓国の釜山空港のロビーで出発便を待っていた時のこ
とである。ロビー内の観光案内所に、無料の観光地図が置いて
あるのを見つけ、一部貰った。

 地図には日本海の所に「東海」と書いてある。「やはりな」
と思った。韓国は歴史的に「東海」が正しい名前だと主張して
おり、国際的に認めさせようと画策しているのである。

 その「東海」の中に、小さな鬱陵島と完全に点でしかない
「独島」が描かれている。独島の日本名は「竹島」と言い、日
韓で50年以上も領有権を争っている。観光客が行くはずのな
い「独島」を、観光地図にまで描いているところに韓国側の
「竹島問題」に対する執念を感じる。

 最近、島根県が「竹島の日」を定めたところ、韓国で「妄言
だ」と抗議のデモ騒ぎが起こったり、姉妹都市交流をキャンセ
ルする市町村が続出して、日本国内でも改めて「竹島問題」が
クローズアップされた。韓国政府はこれを「第二の侵略」と呼
び、対馬を韓国領として「対馬の日」を設けようとする自治体
まで現れたりと、いつもながら喧(かまびす)しい。

 日本のある人気タレントが釜山で公演を行った時、韓国人の
ファンが恐る恐る「竹島問題」について尋ねたら、「竹島? 
だれその人?」と答えて、会場を唖然とさせたという。しかし、
このタレントが無知だとは責められない。「竹島問題」など最
近の騒ぎで初めて知ったというのが、平均的な日本人であろう。

 一方、韓国では中学用の歴史教科書で「日本は日露戦争中に
独島を不法に奪った」と教え、この問題が「慰安婦問題」とと
もに「日本の侵略的帝国主義」を教える恰好のテーマとなって
いる。だから、このタレントが「独島問題」を知らなかった事
で、会場が唖然としたのも当然なのだ。

 竹島問題にいきり立つ韓国人と無関心な日本人。日韓の深い
溝がここにもある。



● 鬱陵島(うつりょうじま)の拝領を許した徳川幕府

 竹島は島根県の北北東220キロ、朝鮮半島の東岸から東方
215キロの日本海中の絶海の孤島である。西島、東島の二つ
の島と数十の岩礁からなり、総面積は0.23平方キロ、日比
谷公園ほどの広さである。2島とも山頂がそそり立って海上に
姿を現したような形で、平地はほとんどない。飲料水の確保も
困難で、古来から人の定住を阻んできた。付近はアワビ、サザ
エ、ベニズワイガニなど海産物の宝庫である。

 江戸時代初期の元和4(1618)年、伯耆国(鳥取県)の大谷・村
川両家が幕府から竹島(現在の鬱陵島)を拝領し、アワビ、ア
シカ等の漁猟や木竹の伐採などを始めた。そして鬱陵島へ渡る
途中の寄港地として松島(現在の竹島)を利用した。

 出雲藩から派遣された隠岐島士の郡司・斎藤豊仙が1667年に
著した『隠州視聴合記』には、この竹島・松島を我が国の北西
限の地として、次のように記している。

(1) 隠州(隠岐の島)は北海の中にあり。(中略)
(2) 戍亥(北西)の間、行くこと二日一夜にして松島
(現在の竹島)あり、また一日の程にして竹島(現
在の鬱陵島)あり。(中略)この二島、無人の地。
高麗(朝鮮)を見ること雲州(出雲)より隠州(隠
岐)を望むがごとし。
(3) 然らば則ち、日本の乾(北西)の地、この州を以て
限りと為す。

「鬱陵島から朝鮮を望むのは、出雲から隠岐の島を望むようだ」
として、この州(島)すなわち鬱陵島を日本の北西限としてい
る。韓国の研究者の中には、(2)の部分を削除し、(3)の「この
州」を(1)の「隠州」として、「隠岐島が日本の北西限」と解
釈する者がいるが、それは牽強付会の説である。

 米子の大谷・村川両家は鳥取藩から「往来手形」を発給され、
著者の斎藤豊仙が駐在する隠岐島の出雲藩番所に立ち寄ってか
ら、鬱陵島に出漁していた。

 幕府が大谷・村川両家に鬱陵島の拝領を許したのも、また出
雲藩郡代が「往来手形」で出漁を許したのも、竹島を含め鬱陵
島までは日本領である、との認識があったからである。



●江戸幕府と李氏朝鮮の領有権争い

 実は鬱陵島には古くから人が住んでいたのだが、李朝朝鮮の
太宗17(1417)年、近傍の「于山島(うさんとう)」(現在、
「竹嶼」と呼ばれている)から住民86名を朝鮮本土に移住さ
せ、以後、渡航を禁じて空島政策をとった。過去に鬱陵島の島
民が倭寇を粧って対岸の本土を襲ったことがあったからである。

 その時以来、無人の島であった鬱陵島を、2百年ほどして大
谷・村川両家が拝領し、今日の言葉で言えば「実効支配」した
事になる。

 それから80年ほどして、朝鮮の漁民が大挙して鬱陵島に渡
り、アワビやワカメ採りを始めると、鬱陵島に関する領土問題
が起きた。

   元禄6(1693)年4月、大谷家の二百石船が鬱陵島で
漁猟をしていた韓人2名を、幕府の裁定を仰ぐために連れ帰っ
たのである。

 幕府は朝鮮との外交を担当していた対馬藩に交渉させたが決
着がつかず、「無用の小島を争って、隣国朝鮮との好を失うの
は得策でない」との判断から、鬱陵島への渡海を禁じた。



●大韓帝国は竹島を領土地図に描いていなかった

 明治9(1876)年、日朝修好条規が結ばれると、日本漁民によ
る朝鮮近海での漁業が活発になった。農林水産資源の宝庫だっ
た鬱陵島にも、島根県や鳥取県の人びとが移り住み、商業や農
漁業に従事するようになった。

  ※日朝修好条規で朝鮮は鎖国をやめて開国し,釜山など3港を開
  港したが,日本に領事裁判権を与える不平等条約でもあった。

 朝鮮政府は江戸幕府の渡海禁止措置を引き合いに出して抗議
し、明治政府もこれを受け入れて、鬱陵島への渡海を改めて禁
じ、日本人住人254名を連れ戻した。

 朝鮮の高宗(李太王.位1863〜1907)は翌年、鬱陵島近
  辺の地理と産物の詳細な現地調査を命じた。その報告書が『鬱陵
  島検察使日記』や『鬱陵島外図』として提出されたが、それには
  今日の竹島は記述されていない。鬱陵島の最高峰から四方を眺め
  たが、「一点の島嶼(とうしょ)」も見えなかった、と報告している。

 1898年に製作された『大韓與地図』にも、また1899年に大韓
帝国の学部編集局が製作した『大韓全図』にも、描かれている
のは鬱陵島までで、竹島はない。

 日韓の歴史的な領有権争いはあくまで鬱陵島に関するもので、
それよりもはるかに日本に近い竹島については、問題にもされ
ていなかったのである。



●「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリシト認ムベキ形跡ナク」

 1900年、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡
の行政地域を「鬱陵島全島と竹島、石島」と定めた。今日の竹
島を当時は日朝ともにリャンコ島と呼んでおり、この「竹島」
は鬱陵島近傍の「竹嶼(ちくしょ)」と考えられる。

※ 1895年に日本公使の三浦梧楼らによって,反日派の閔妃
   (びんひ)が殺害されるが,1897年に高宗は朝鮮が自主独立国で    あることを示すために大韓帝国に改称し,高宗は大韓皇帝として即    位した。



 「石島」とはどこの島か分かっていない。これを韓国政府は
独島(現在の竹島)としているが、その根拠は「石」(ソク)
の音が「独」(トク)と似ているからだそうだ。素人にも疑わ
しい薄弱な根拠であり、しかも竹島が韓国で「独島」と呼ばれ
るようになったのは1904年以降である。

 1903年、隠岐島の中井養三郎が、当時リャンコ島と呼ばれて
いた竹島でアシカ猟を始めた。そしてリャンコ島の領土編入願
いを内務、外務、農商務省に提出した。

 これを受けて、明治政府は閣議で「他国ニ於イテ之ヲ占領シ
タリシト認ムベキ形跡ナク」として、リャンコ島を竹島と命名
し、明治38(1905)年2月22日、竹島を島根県に編入した。



●「安龍福将軍の活躍」

 韓国政府は、歴史的な文献をいろいろ持ち出しては、竹島が
朝鮮の固有の領土だったと主張している。たとえば、必ずと言っ
てよいほど引き合いに出されるのが18世紀後半の『東国文献
備考』の「鬱陵、于山、皆于山の地。于山は則ち倭の所謂(い
わゆる)松島なり」という一節である。「倭のいわゆる松島」、
すなわち現在の竹島は于山島であり、それは昔から朝鮮領土だっ
た「于山の地」に属するとの解釈だが、しかし、この于山島と
は前述の鬱陵島の近傍の「竹嶼」であることが、他の韓国の文
献や地図にも出てくる。

 なぜ、これが「倭のいわゆる松島」と言われたのか。実は元
禄6(1693)年4月に連れ去られた韓人の一人、安龍福が絡んで
いる。安龍福は朝鮮に戻されてから、禁じられていた鬱陵島渡
海の罪を逃れようと、対馬藩主に鬱陵島と于山島を朝鮮領とし
て認めさせたという、でっち上げの証言をする。

 その中で安龍福は、鬱陵島で漁をしていた「倭人ども」が松
島から来たというので、「松島は于山島だ。これも我が朝鮮の
地だ」と言い、さらに松島、すなわち于山島に出向いて「倭人
たち」を追い出したという証言をしている。実際には安龍福は
日本に連行されただけで、于山島にも松島(現在の竹島)にも
行っていない事が日本側の記録で明らかになっている。

 このほら吹き漁師の言葉が朝鮮の史書に残され、竹島が于山
島で古来からの朝鮮の領土だったという「歴史的証拠」とされ
たのである。いまや鬱陵島では「安龍福将軍」として記念碑が
建てられ、記念館では「将軍」が日本人を追い払う姿がジオラ
マで展示されている、という。



●サンフランシスコ条約で「独島、対馬島、波浪島」を要求

 敗戦後、1951(昭和26)年9月4日に締結されたサンフラン
シスコ講和条約では、第二条【領土権の放棄】(a)項に以下の
文言があった。

「 日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び
欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権
を放棄する。」

 この条項の最初の草案では、日本から除外される地域として
「斉州島、竹島、欝陵島」とされていたのだが、日本側の要請
を受けたシーボルト駐日政治顧問が米国務省に対し、「竹島は
もともと日本の領土だった」と提言したことから、書き換えら
れたのだった。

 これを知った韓国政府は、米国に対して「独島、対馬島、波
浪島」を朝鮮領に含めるよう求めた。波浪島とは、「朝鮮半島
の木浦(もっぽ)、日本の長崎、中国の上海を結んだ三角形の中間地点に
ある島」ということだったが、その後、韓国政府の努力に関わ
らず、遂に発見することのできない「幻の島」であった。韓国
は竹島のみならず、古来から日本人の住む対馬と、さらには存
在しない「波浪島」まで要求したのである。

 韓国政府の要望は当然ながら拒否され、こうしてサンフラン
シスコ講和条約で、竹島は日本の古来からの領土と認められた。



●人質にされた日本漁船員2731名

 1952年1月、韓国の李承晩(りしょうばん.イスンマン)大
  統領は突如「李承晩ライン」を宣言し、竹島を自国領に含めた。
  国交正常化のための第1次日韓会談の1ヶ月前のことであった。
  当然、日本政府は抗議し、アメリカ、イギリス、中華民国からも
  その違法性が指摘された。日韓交渉では、在韓日本資産の請求権
  をめぐって隔たりが大きく、進展のないまま終了した。

 翌1953年1月、第2次交渉開催が合意された直後に、李承晩
大統領はライン内に出漁した日本漁船の拿捕(だほ)を命じ、2月4日
には日本の第一大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺されるという
事件が起こった。

 日本側は竹島に「島根県穏地郡五箇村竹島」の標識を建てた
が、韓国政府は「独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲の地」
として、「日本が独島を奪おうとするのは、韓国を再侵略する
ことを意味する」との声明を発表した。以降、日本側の領有権
主張は、すべて「日本侵略主義」を糾弾(きゅうだん)する恰
  好の標的となった。

 韓国による日本漁船拿捕はその後も続き、合計233隻が拿
捕され、抑留された漁船員2731名、死亡5名に及んだ。日
本はこれらの漁船員を人質に取られたまま、日韓交渉を続けな
ければならなくなったのである。

 1954年6月11日、韓国政府は竹島に海岸警備隊を派遣し、
8月10日に無人灯台に点火、9月15日には竹島を描いた切
手を発行し、実効支配を着々とすすめた。

 9月25日、日本政府は竹島問題を打開するために、国際司
法裁判所への提訴を韓国政府に提議したが、領土問題は存在し
ないと韓国政府は拒否した。当事国の両方が同意しないと国際
司法裁判所は審理できない。昭和37(1962)年の衆院外務委員
会で「国際司法裁判所で敗訴したらどうするか」との質問に、
当時の小坂善太郎外相は「結果に従う」と堂々と答えている。

 国際法に照らせば竹島は明らかに日本領であると、韓国政府
も知っているのだろう。だから国際司法裁判所への提訴を拒否
しているのである。



●欺瞞からは真の友好は生まれない

 平成16年、元東京学芸大学助教授の殿岡昭郎氏らが「竹島
切手」発行の申請を郵政公社に行ったところ、「外交上問題が
ある」と拒否された。また島根県が「竹島の日」を制定しよう
としたら、外務省は島根県と県議会にあて、韓国内で起きた抗
議活動などを列挙した文書を送付した。条例を制定させまいと
する圧力であろう。こうした動きが、日本政府の事なかれ主義
の姿勢をそのまま示している。

 朝日新聞などは例によって、対立を「ことさらあおり立てて、
どれだけの得になるのか」と島根県の動きを批判している。こ
のように政府や一部のマスコミは、「日韓友好」を振りかざし
て、国益を棚上げしている。

 逆に韓国政府は、日本が領土権を主張する事自体を「妄言(
  もうげん)」として話し合いすら拒否し、「第二の侵略」など
  と言い立てる。まさに国益を振りかざして「日韓友好」への配慮
  などはおくびにも出さない。

 まさにごり押しと泣き寝入りの関係であって、これを日韓友
好というのは欺瞞である。こういう欺瞞からは真の友好は生ま
れない、というのが世間の常識ではないか。


カルメンチャキ |MAIL

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