玄関脇の小手毬が満開です。小さな白い花が集まって半球状になり、それが枝垂れる姿は可憐で和みます。
しかし私、小手毬の名称と形状が一致したのは去年のことです(をい)。
私はガーデニングには関心ないこともあって、花の名称には疎いのです。我が家の花の名称、半分以上分かりません(言い切るな)。 まぁ、私の持論(寧ろ極論)としては「愛でる心には言葉は必要ない」ということなのですが。 対象を感じ取るのは自分なのですから、自分さえその感動を分かればいいと思いますし。
でも、「名称」ひいては「言葉」が分からなければ、自分の感動を伝えることも出来ないのですよね。それはとてももどかしいと思います。特に私のような「語りがりや(嫌過ぎ)」にとっては。 「あの花が可愛いのv」「どの花?」と返されても花がその場になければ伝わらなかったのです。ほら私前衛詩人だから。自分の言葉で伝えようとしても失敗することしきり(苦笑)。
ですから、「言葉というものは二次的なものだなぁ」と小手毬を見るたびに思うのです。他の人に伝えるだけではなく、過去や未来の自分に対して記す日記もそうかな、と思っています。
気持ちの次に生ずるもの。気持ちの増幅剤。
これが「言葉」だと思います。そしてこれがとても、怖い。 大好きなんだけど、同じくらい怖いものだと思います。
何度か言及しましたが、私は反射で生きている人間なので失言を挙げればきりがないのです。痛い目を見てから反省するエピメテウス人生驀進中。 小手毬を見る度に「もっとよく考えてから話そう、記そう」と思います。 …って春しか反省しないってことか、自分(爆)?
特に何もない日常ですが、愛らしい花に寄せて。真面目に自戒。 でも日本語がそこはかとなくおかしい気がする…(汗)。要修行。 明日は雨のようです。まだ散らないでいてくれるといいな。
|