■ピチカート■ お誕生日おめでとう比呂士。にっぱち。



 どうしたのと、優しく言ってもらえたらそれだけで報われると思っていた。赤く熱を持った頬に触れてくれたら、(みっともなく腫れた目許を隠す前髪を、ゆびさきでそっとどかしてくれたら、)切れてしまった唇の端をちろりと舐めとってくれたら、死んでもいい。

 仁王くんはドアの隙間から、私をじっと見上げると、諦めたような顔をしてサンダルを履いた。

「行くよ」

 背中を丸めて出てきた仁王くんは、下を向いているせいもあり、だいぶ小さく感じた。背丈を盗む、と言うのだ。拒絶されていることに悲しくなったが、それも思い上がった話だと改めた。彼にそんなつもりはない。

「どこへです」
「誰もおらんけぇ」
「鍵は」
「はやく来んしゃい」
「仁王くん。どこへ行くんですか」

 振り返るのも億劫そうに、彼は少しだけ顎を引いた。昏い夕焼けが長袖のTシャツのネイビーを濁らせた。ただただ億劫そうな、だるそうな態度とうらはらに、声は冷たく清んでいた。

「ふたりきりになれんところ」

 私は閉じかけたドアを手で支えたまま、そこに頑張った。ポケットに手を入れた仁王くんが寒そうに肩をすくめる。そして億劫で仕方ないという仕草でこっちを振り向いた。

 目が合っているのか、合っていないのか、わからなかったけれど私は目を逸らした。

「嫌だ」

 自分の睫毛が空気中のわずかな光のくずを拾ってしまって、チカチカと目が痛んだ。仁王くんの家の古びた鉄製のドアは重く、しっかりと芯まで冷えていた。

 家の中には人の気配がなかった。仁王くんは、ほとんど嘘をつかない。



「滲みる、」

 ピンセットに脱脂綿というレトロな品々をひろげ、仁王くんは傷を看てくれた。消毒液は赤チンではなくマキロンだったけど。『ハイ』と問いかけに答えたけれど、そのことでなにか加減してくれるというのではなかった。

 仁王くんが手当てをしてくれている間、手持ち無沙汰で、なんとなく畳を撫でていた。畳は毛羽立って爪や指の先にひっかかった。その感触が面白くて、ずっと畳を撫でていた。

「痛いの、」

 この、問いになりきらないような、半音階の投げやりな語尾に私の心は震える。『ハイ』ともう一度答えたがやはり仁王くんは何も変えなかった。

「すぐに帰ろうと思っていました、顔を見たら」
「うん」
「でも、顔を見たら、話を聞いてもらいたくなって」
「話さんの」
「聞いてくれますか」
「うん」

 傷ばかり見て、少しも私の目を見ようとしてくれないんですね。まずそう言ったら、猫のような欠伸をした。そして眠そうにまばたきしたあと、ようやく目が合った。(合っているのだと思う。恐らく。)

 それだから私は、その曖昧な色の目の中に、これ以上ない優しく誠実な声でそっと打ち明けた。別れてきたんです。恋人だった人と。

「うん」

 本当に猫に向かって話しているような気持ちになった。おまえ、これっぽっちもわかっていないのだろう? そう言って首をきりきり締めてやりたいような。そう。私はたまらなく幸福だった。

「他に好きな人が出来たから、別れてほしいと言いました」
「馬っ鹿じゃなかろうか」
「そうなのでしょうね。それでこの様なんですから」
「話してすうっとした」
「いえ、まだです」

 そこで殊更声を潜める。甘く甘く、とろりと濃く。

「男性なんです、それ」
「どっちが」
「どっちも」

 わざとしらばっくれる彼に、私も真顔で教えてやる。言外に、秘密ですよと強く念押すように、目を光らせて。

 仁王くんは退屈そうに私の顔を見返した。それから今更、こう尋ねた。

「柳生、眼鏡はどうしたんじゃ」

 仔猫の牙が隠れていそうな口許が可愛らしくて、私は思わず笑った。

「捨ててきたんじゃろ」
「ぶつけて、壊れてしまっていたので」
「自分でやったくせに。後からわざと踏んずけよったんじゃろ」
「すごい、仁王くん」
「馬鹿めが。八つ当たりして。可哀想な眼鏡じゃ」

 かわいそうかわいそう、とお題目のように唱えて、慇懃に合掌した。その揃えた丸いゆびさきを見て、身体の中が熱くなった。

「可哀想なのは、眼鏡だけですか、仁王くん」

 おずおずと覗きこむと彼の、ちかりと光る虹彩は、どろどろの液体のように渦を巻いて私を吸い込もうとした。それが仁王くんの、彼自身のはっきりとした意志であったなら私は喜んでそうしたのにと口惜しく思った。

 仁王くんは相変わらず、猫のような訳知り顔で私の上を素通りする。憎らしい、この白い猫を、自分の物にしたくて私はあれこれと浅知恵を巡らせる。

「思ったんです。私、こうして君に部屋へ入れてもらって」

 少しだけ身を乗り出すと、もうとっぷりと夕闇に浸かった部屋が軋みを上げる。

「君の‥‥仁王くんの冷たい掌で頬の腫れを冷やしてもらって」

 彼は利き手と反対の掌でそっと私の頬を包んだ。

「仁王くんの指で、前髪を払ってもらって」

 丸く深爪の指先が私の額を刷く。もうやめようかと思った。これ以上したら、本当に、取り返しがつかなくなる。今だって充分ついていないのに。

「傷を、舐めてもらったらって。そうしたら」

 口にすれば、まるでためらいもないように彼は小首を傾げて私の唇を舐めた。生温くぬるりとした舌がまだ乾かない傷口を這い、辺りを唾液で汚した。そしてかさついた唇が、私の同じ肉を捉え、柔らかく吸われた。

 たまらなくなってなりふり構わず舌を差し出せば、拒まず中へ引き入れられる。ゆるゆると吸い上げられ、だらしのない息が鼻先へ抜けた。しがみついて、抱き殺してしまいたいと思った。

 その冷たい掌で熱い頬に触れてくれたら、みっともなく腫れた目許を隠す前髪を、ゆびさきでそっとどかしてくれたら、切れてしまった唇の端をちろりと舐めとってくれたら、死んでもいいと思った。だのにどうだろう。私はどこまでも底なしに欲が深い。

「殴られたの。てめえの男に」
「ハイ」
「そいで、おかされた」
「そこまでは」

 なんじゃ、とそっぽを向いて、彼は畳に寝転がった。私もそばに体を延べて、うつぶせになり彼を眺めた。近くで見ると、襟髪を束ねるゴムがそこになく、ほどけて絡まった髪の毛が白いうなじを隠している。

 ごろりと首だけ寝返りをして、(私の)仁王くんは小さな退屈そうな牙を光らせた。

「すきもの」
「君に言われたくはない」

 そう誰のせいで、てめえの男に殴られながら他の男に欲情するような不健全な誕生日を過ごしてしまったんだ。

 知っていたくせに。君が今日ただ一言、おめでとうと言ってくれていたなら。

「この、誑し」

 聞こえていないみたいに、彼は静かに目を閉じた。Tシャツの襟首から少しだけ覗いたノースリーブの桃色が、気がふれそうなくらい愛らしく、いじましかった。



(終)

2007年10月19日(金)

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