■緋寒■


 なんなの? という冴えた声は実に冷たく、久しぶりだなあと甲斐は思った。背中でピリリと笛が鳴った。リフティングや、コーンドリブルをしていたサッカー部の下級生たちが、遠巻きに甲斐たちを見ていたのだが練習に戻っていく。ああ、と、甲斐は溜め息をついた。鉛色の空だ、嵐が来そうだ。

 今にも雨が降ればいい。

「ぁが!」
「何(ぬ)ーが?」

 平古場は横にいる甲斐の尻を思い切り蹴っ飛ばした。そうしておいて、視線だけは木手から外さなかった。少し顎をひいて睨みつけるように、そして唇を少し歪めて笑うように、挑発している。こういうあからさまな態度には、逆に木手は乗らないのだ。それを知ってやっている。

 木手の方でも、蹴られて跳ね上がった甲斐のことは無視して平古場を見据えている。甲斐は馬鹿馬鹿しい気にもなったし、素直に悲しい気もした。二人の睨み合いはしばらく続いた。やがて平古場が、フンッと高く鼻息を吐いて、踵を返した。最後にもう一度、今度は甲斐を睨んで、顎をしゃくった。

「寛!」

 呼びつけられた知念は黙って平古場の後を追った。木手をここへ連れてきた田仁志も、呼ばれていないのにその後を追った。運動場にはサッカー部と木手と甲斐が残された。

 そしてようやく木手は、甲斐に一瞥をくれた。甲斐は屈辱的な気持ちのまま目を伏せていた。

 平古場と甲斐が暴れているといって運動場まで半ば引きずってこられた、木手の機嫌がいいはずがない。もうテニス部の部長と部員ではないのだが、特に平古場は他の奴では手に負えないということで、今でも何かと木手にお鉢が回る。もううんざりという顔をして現れる木手を見ると、甲斐自身もううんざりと言いたくなる。

「甲斐クン」

 細い眉を片方だけきつく撥ね上げる。ほら、部長扱いされるのがうんざりなのなら、俺がそうして名前を呼ばれただけで言うことを聞くなんて思うなよ。甲斐は運動靴の底で、白い地面をがりがりと擦った。

「あー」
「あーじゃないよ」
「えー」
「いいかげんに」
「ごめん」

 しましょうね、と言い掛けた木手の唇が止まる。黒目がちの、思うほど怖くない目で甲斐を見る。

「チョコ食ったからよー」
「は?」
「だから、チョコだよ」
「誰の」
「木手の」
「は?」

 木手は、本気で困惑してもう怒るのを忘れた。甲斐はこの隙をついて一発ぶん殴って走って逃げたいという思いに駆られた。一目散に走れば追いかけては来ないんじゃないか。とにかく自転車置き場まで、あとは乗ってしまえばこっちのものだ。などなど。

 しかし木手は猫よりも執念深いので、明日も中学最後の補習を受けなければならない甲斐が逃げ切ることは、大体不可能だった。

「バレンタインのよー‥‥」

 預かった。木手くんに渡してくれと、知らないセーラー服の女子に頼まれた。名乗った気もするが覚えてない。ただ、向こうは「甲斐くん」と呼び止めた。その手作りではないが本命っぽいチョコを、食った。

 一週間にも及ぶ良心の呵責に耐えかねた甲斐は、きょう偶然に帰りの昇降口で声を掛けてくれた知念にそのことを打ち明けたのだ。

「したら平古場が盗み聞きしててよー」
「なんでそれで喧嘩になるのよ」
「知らねー。アイツたんちゃーやっし」
「そうじゃないでしょ。関係ないでしょ」
「しらねえ」

 嘘だ。甲斐はそっぽを向いた。確かに、平古場はチョコには関係ない。関係ないし、甲斐にも関係ない。でも怒った。理由はちゃんと甲斐も知っている。

 木手は大げさに首を振って、肩を竦めた。それから腕組みを解いて少し、近づいてきた。隣り合うと呼べるくらい近づいて、随分離れて立っていたんだなと甲斐は思った。夏が終わって木手が遠くに行ってしまった気がしていた。自分たちはテニス以外では友達になっていなかったのかもしれないと、ある時不意に考えた。

 何しろ、それまで、夢中だったのだ。夢中で前を見ていた、同じ方を向いていたから、自分は木手のことを全然見てなかった。木手も自分のことを全然見てなかった。画用紙に絵を書く時わざわざ白い色を塗らないように。

「‥‥しにごめん」
「だれ?」
「あい?」
「‥‥だから‥‥誰(たー)よ」

 木手は居心地悪そうに訊いて、顔を隠すように、眼鏡を上げた。

「見たことない‥‥多分南女の‥‥背は、俺より低くて‥‥髪は俺より長くてぇ」
「てゆうか女子ほとんどそうだからね」
「結構可愛かっ‥‥」
「名前は? 手紙とか入ってなかったの?」

 あ、と甲斐は顔を上げた。

「なかった」
「じゃあしょうがないね」

 木手は深く二度うなずいた。

 しょうがないのかよ! と思わず突っ込みたくなったが、逆に木手の水平チョップが甲斐の額に突き刺さった。『はぁ〜ジキシッ』と口で効果音を演出した木手は、相も変わらずの無表情で、突っ込みたい甲斐の顔を覗きこんでキスをした。一体なぜであろうか。


(了)

2007年02月25日(日)

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