■ヴェルニ・ア・オングル■ 年齢差パラレル


 忍足くんてさバイでしょ、と飛行機の模型を飛ばしながら彼は言った。返事しようとしたら(どんな返事だったか定かでない)前髪がばさりと落ちてきて心臓が止まりそうになった。咥え煙草の美容師は手元だけ眺めながら「悪りぃ」と言った。

「あくつ口だけー」
「るっせ」
「悪いと思ってる?」
「ちっとバサッとイッただけだろーが」
「‥‥だって、忍足くん」
「は、バサッと?!」

 イッた?! 俺の前髪が?! 軽快なやりとりからこぼれ出た不吉な言葉に一応突っ込んでおく。鏡の一番奥に斜めに座った千石少年の、手に持った飛行機は8の字旋回しながらゆっくり着陸態勢に入った。亜久津はチッとはっきりすぎるほどはっきり舌打ちして、カウンターの灰皿に煙草をねじ込んだ。

 大理石風のカウンターの上には写真週刊誌のグラビアページが開かれている。グラビアは断然モノクロだ、と忍足は思う。

「切ってねえよ」
「あ、うん。俺もびっくりしただけ」
「ガキがうるせーからよ」
「うるさくないよねえ忍足くん」
「うるせー。チョコ持ってこい小僧」

 頬を膨らませながらも、千石少年は素直にキャッシャーの方へ飛んで行き、チョコレートの盛られた器を運んできた。その、とても中学生とは思えない色の髪は、鏡越しに春のように発光した。肌寒いほど眩い、軽やかな恋の輝きだ。

 別に恋をしている風でない千石がガラスの蓋をそっと持ち上げる。そっと指先で忍足は舟形のプラリネ・チョコレートを摘んだ。わけもなく胸が高鳴った。

「あとおめー『忍足くん』とか呼んでっけど、年上だぞこいつ」

 いいよいいよ、と言おうとしたけどチョコで口の中が一杯でもごもごしてしまった人のふりを忍足はした。千石本人はまるで気にかけていないようだった。でも現役の中学生にしたら二十五歳なんてオッサンだろう。「背伸びしたい少年と年上の遊び友達」とでも言うべきこの構図が実は千石少年の優しさだったら、と思うと頭痛がする。

 忍足より僅かに年上の亜久津は、商売道具のはずの霧吹きをシュコシュコ振りまいて千石を追い払った。わざとらしく逃げ惑いながら千石は、忍足の脇に滑りこんできて再びすばやく蓋を持ち上げた。鏡越しじゃなくリアルに目が合う。忍足はウィスキーボンボンを摘んだ。

「あと茶ァ煎れとけ。もう終わっから」
「もー、手伝わせるならバイト代払ってよ」
「アタマやってやってんだろ」

 鋏を収めた亜久津の長くて固い指が、ばさばさと髪を払ってくれる。忍足は目を閉じているので彼がどんな顔をしているのかはわからない。多分バランスを見たりしているのだろうその間、亜久津の五本の指はトントンと頭のてっぺんを軽く叩いている。きっと癖だ。

「忍足くんもさ、こんな田舎の美容師に髪切らせて怒られないの?」
「怒られないよ。亜久津上手いから」
「東中野は田舎じゃねー」
「あっくん家千葉じゃん。田舎もんじゃん」
「千葉も田舎ちゃうよな」
「流すぞ」

 ぐるん、と椅子を回され、景色が変わる。一雨去った水曜の昼下がりは、日向でも木陰でもきらきらと光って流れていく。自分たちが、ヒモ寸前の無職の男と学校さぼった中学生と不良の美容師であるという事実を、春はひと時忘れさせる。夏であれば怠惰だし秋であれば物悲しいが、今は春。麗しの春。

「おめーもモデルとか調子乗ったこと言ってねーで、地に足つけて働けよ」

 そういえば亜久津は、不良だけどもう大人だし、若くして店を持ってる将来有望な実力派イケメン美容師なのだった。

「いいじゃん。誰でもなれるもんじゃないんだよ?モデルって。カッコよさも才能だよ」

 そういう千石少年は、テニス部で全国大会に出場して、高等部にスポーツ枠の内部推薦が決まってるらしい。

「次の仕事決まってんのか」
「あ、一応。通販雑誌の巻頭」

 千石はすごいねーとキラキラした瞳で言ってくれたし、亜久津もがんばれよといつもより念入りにマッサージしてくれた。セーヌ川(正式名称は知らん)の川面が乱反射する光の欠片が目を射て、忍足は思わず掌で目蓋を覆った。

 そう、はかないのだ。チョコレートも恋も春物のキャミソールも少年時代も、淡い残像しか与えてはくれない。触れたと思えば消え失せている、うつろう季節の気まぐれのようなものだ。濃密で甘美であったはずなのに、去り際は二月の陽射しのようにあえかで、不安だけが胸に残る。

 だから、グラビアも週刊誌で見る安っぽい刷りの数ページが丁度良くて、実際その写真集を買ってしまうと大体やりすぎだったりこっちも粗探しはじめたり微妙なムードになる。

 帰り際に亜久津は「女とフライデーとかされんなよ、大事な時期なんだから」と母親のような優しさでチョコレートをたくさんくれた。その出所であるところのテニス部のエースの千石少年はめずらしく、忍足にくっついて店を出た。これで二人で商店街に入って、未成年連れまわしの罪で補導員に捕まったりしたら、今度こそ追い出されるんだろうな。忍足は写真週刊誌の嫌いな彼女のことをぼんやりと想った。

「忍足くん、さっきの質問答えてよ」

 少しばかり有名な制服姿で人目を憚らない千石に気後れしながら、忍足は外していた眼鏡を取り出す。

「バイなのって?」
「ね、そうでしょ」
「なんでだよ。おまえ俺のこと好きなの?」
「違うけど、そうだよって言ったらキスくらいするでしょ?」

 こういう話が好きなんだ。この前会った時は「眼鏡ない方が男っぽくていい」とか言ってた。女の子にセクシーだって言われるでしょとか、年上の人妻とかにもてそうだよねとか、今の彼女と倦怠期とかないの、とか。

「言われたら、するかもな」
「だよねー」

 フライデーされたらひとたまりもないほど甘く腕を絡ませて、千石はキラキラと忍足を見上げた。

「忍足くん自分大っ好きだもんね」

 通りの肉屋では早くもコロッケの特売がはじまっている。鮮やかなキャンディオレンジが飛び込んでいくと、膨らみはじめた人だかりは、春一番となって商店街の花飾りを吹き上げた。夕食の支度はまだずっと先に思える。



(了)

2007年02月14日(水)

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