■虹の彼方に■ 大学生ひとり暮らし


 この部屋に来てくれたのはきみが二人めだよ、と言われたとき、試されている気がして居心地悪かったのは俺が自意識過剰なのか。その一人めは誰だと、もちろん聞けない俺に千石はさりげない態度で教えた。

『一人めはね南。うちの部長だよわかる?』

 地味ーズの。と俺が言うとえらくウケた。ケラケラと明るい笑いをまきちらす千石を見ながら、こいつも同じなのかと思った。今でもそいつのことを「うちの部長」と言うのか。それは相手が俺だから、中学のテニスしか接点がない相手だからかもしれない。とにかく俺はぼんやりと思った。こいつも俺と同じなのかと。一人暮らしをはじめた千石のマンションは、どこか女の部屋のようだった。


「むかつくんだよ何か」
「‥‥悪い。すみません」
「いいよ。わかったら脱いで」

 そしてひったくったシャツに鼻を押し付けて、わー信じらんないとか喚きながら大げさにまた突き離した。俺は呆気に取られていた。こいつがこういう反応をするのはまるで予想外だった。こいつはもっと、他人の、行動とか行為とか交友関係とかそういう自分のいない場所で起こるすべてのことに無関心なのではないかと思っていたのだ。

 上半身裸のまま玄関に立ち呆ける俺に、千石は決まり悪そうな不機嫌そうな顔で、横を向いたままTシャツを投げた。

「それ、小さくないと思うから」

 そう言った千石がいつもより小さく見えて、無性に抱きしめたいと思った。その感情の高まりは、特に好きと言うわけじゃない女に対するものと同じだった。不特定の女性全般に抱くような感情を男の千石に対して持ったことに、後ろめたさを覚えた。多分俺はどこかこいつを対等に見ていない。あきらめのようなものが、こいつに対して付きまとう。

「おいで忍足くん。怒ったお詫びにわけを話してあげるからさ」

 促されてようやく俺は千石のTシャツに袖を通した。パジャマ代わりだろうそれは首も肩もだらしなく甘くて、裸よりも裸のようで不安だった。

 インスタントコーヒーを作ってくれた千石は、自分はペットボトルのウーロン茶を飲みながら胡坐を掻いていた。俺のシャツはさっそく洗濯機の中でうんうん回っている。寒かったので、部屋の隅に落ちていたパーカーを羽織っていた。千石が着るとルーズなそれは俺が着ると普通のパーカーになった。本当は、今までつきあったどの彼女ともうまくつりあうくらい、千石は男として並みの体格をしていた。172センチはそこまで小さい方じゃない。テニスをやっていただけあって肉付きも悪くない。

 それでも千石はいつも小さい。明るくて、可愛らしいもので周りを囲い、幸福そうに昨日あったことを話す。俺はこいつの部屋に来るためにバイトの予定を空け、友達の誘いを断るのだ。恋人に会う日のように。こいつのことそういう風には少しも好きではない。好きでないことを疚しく思っている。恋人のように。

「跡部くんに会った時、シャツから煙草の匂いがしたんだ」

 テレビの方へ向かって千石は話す。切ったばかりの髪から耳たぶが覗いている。

「あいつ吸わへんよ」
「知ってる。いいんだけどさ、もうテニスやめたし」

 跡部の現役最後の試合を俺たちは二人で見にいった。それはそれは凄い試合だった。これでもう見られないなんて嘘みたいだった。スタジアムの中には、確かに宍戸や日吉や岳人や榊監督がいて、だけどみんなで集まったり誘い合ったりはその日までしなかった。

「吸う奴嫌いやし」
「彼女吸うじゃん」
「好きなんやろな」
「そうじゃなくて、いいんだよ。俺もきみも跡部くんももうテニスやってないんだから。ていうか、亜久津なんかやってるのに吸ってたし。ていうか亜久津はいいんだ」
「わかるよ」

 その先を言ってほしいような言ってほしくないような気がした。そういう気は常にしていた。

「跡部くんは、俺のスーパースターなんだよ」

 無関係なテレビを見ながら千石は無感情に言った。その事実と、その自分自身の想いと戦い続けている人のようだった。俺は自分の言葉の無力さを感じながらもう一度わかるよと言った。本当はわからなかった。

「亜久津はねヒーローなの。でも跡部くんは、スターだった。俺には手塚くんでも真田でもなくて、跡部くんだったね。なんでかカッコよかった」
「そうやなあ」
「キスしようか」

 言ったきり何もしない千石の唇に俺は身を乗り出してキスをした。きっとこいつが女だったら、あるいはただテニスをやっていなかったら俺は、こいつのことを好きだったのかもしれない。そう思うと今、そんな風に好きでない自分が、疚しく思えて口の中が苦い。本当はキスなどしなければいいのだ。

 テレビとの間に割り込んできた俺を千石は邪険にもせずただ無視した。俺は舌を押し込み、耳たぶを撫で、体を倒しながら千石を吸った。いつか千石が「好きな人がほしいなあ」と言った時に俺は何も言わなかった。俺のこと好きになったらええやんという返事以外思いつかなかったからだ。



(了)

2007年02月12日(月)

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