■明け星ララバイ■


「橘くんはあんな風にはしなかった」
 一呼吸にそう言った後、不二は素早く俺を見た。その目は殴って欲しそうな、殴られるのを期待していたような色だった。実際俺は殴ってもよかったし、殴れるような気持ちになっていたけど、ちょっと違う。そういうことは不二、忍足とかに言うべきなんだ。うん。忍足ならきっと殴ってた。
 それにしても、青学の不二は後ろ回し蹴りも凄かった。
『悪かった』
 跡部は言ったけど、俺は跡部が無理やり不二にキスするところを見たわけじゃない。ばちんと破裂するような音がして、少し前屈みに横を向いた跡部がいて、不二は振り下ろした(だろう)手をもう一度(たぶん)振り上げた。その掌はそのまま跡部の顔に向かって、きっと造作もなく跡部の手がそれを遮った。今度はぱしりと軽い音がした。思い込みでもそれは暖かい音だった。
 そして回し蹴り。後ろへ半回転した不二の踵は跡部の横っ尻にきれいに決まった。跡部は、何をしたのか分からないけど、とにかく上手くその衝撃をどこかへ逃がして受け止めた。そして二の太刀がないことを確かめると、いつもみたいに綺麗に背筋を伸ばした。
 悪かった。不二は別に、と言った。
「ジュース、買わないの」
 不二が言った。さっきのが不動峰の橘のことだとようやく俺は気がついた。
「跡部って不二のこと好きなの?」
 僕に訊かないでよ、という顔を隠しながら不二は多分、と答えた。本当は、たぶん、口に出した「多分」が本当の答えだ。なのに不二はそういう顔をする。僕に訊かないでよ、そういう顔は不二の虚勢だろうか。きっと怖いんだ。そうだろう。跡部なら俺だって怖い。
「じゃあさあ、橘はなんて言ったんだ?」
 不二はじっと俺を見た。俺はジュースを買いながら、なるべくその顔を見ないようにしながらそう聞いた。不二が責めてるのは跡部の『悪かった』だ。無理やりのキスなんかどうってことない。
「君ってやっぱりちょっと変だね」
 不二が笑った。俺は嬉しかった。
「お前がしてほしそうな顔してるから、って言われた」
「不二してたのか?」
「してた」
 不二はまた笑った。これは勘だけど、不二は今は橘のことそんなに好きじゃない。
 俺は二つ買ったジュースの片方を不二に渡した。ごめんね忍足。
「手〜冷やしな」
 だって跡部なら俺だって怖い。好きになったら忍足より怖いと思う(ごめんね)。でもそれじゃあいつまで経ってもあいつはひとりぼっちの王様で、それは困るんだ。俺たちの大事な王様だからさ。
 不二はつまらなそうな顔をして、温めるみたいに両手でジュースの缶を包んで転がした。
 ね、これはわいろだよ。


(了)

2006年06月07日(水)

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