夕日のような朝日を抱いて



 薄っぺらなステンレスのシンクの底をあまだれが叩いた。ぬるい音だ。俺は床にぽつりと置かれた灰皿の、三、四本の吸い殻を見ている。
「ここねー水、使い放題なんだよ」
 家賃にコミなの。すごくない? 声は水音の隙間で、膨張して聞こえた。座布団には四隅に、金色の(それを模した明るい黄色の)細い総がついていた。同じものが、向こうの部屋との境目に数枚積み上げてある。誰か頻繁に出入りするのだろうか。
 板張りの床は傷んでささくれていた。板の間、畳、畳、三間続きの計二十四畳。一人暮らしには広すぎる。アパートと言いつつ半ば借家のような、その部屋は家賃三万そこそこで、剥き出しの台所には古くてでかい冷蔵庫がのさばっている。前の持ち主に捨て置かれたくせに、まったく太々しい。
 その冷蔵庫の陰から千石清純が頭を上げた。驟雨を走り抜けてきたように、その髪は濡れている。
『料理はしてないからいいの』
 そう言って台所の洗い場に頭を突っ込んで洗い始めたのを見て、正直何も言う気が起きなかった。料理しないならいいか、とさえ思った。冷蔵庫には缶ビールとツマミしかなく、そしてその量もまた来客の多さを物語っていた。
 らしくないと感じたが、その感じ方を身勝手だと思った。俺は開けたきり放ったらかしていた缶ビールを一口煽った。鉄臭かった。
「中学の時以来だね、うちに来るの」
 こちらを見ないままで千石は部屋を横切っていく。ろくに拭いていない頭から滴がぽたぽたと垂れていた。
「‥‥初めてだ」
「俺んちって意味だろ。ようこそいらっしゃい」
 ただっ広い部屋の向こうから、顔だけ振り向いたようだが、遠すぎてよく見えなかった。
 実際には俺の部屋よりも教室よりもテニスコートよりも狭いこの家は、それでも充分広すぎる。俺とこいつの二人だけを置いておくには、苛立たしくて滑稽だ。
「でもね、跡部くんくらいだよ。土日使って飛行機乗ってここまで来てくれんのさ」
 押し入れに何か探しているらしい千石はやっぱりこちらを見ないまま喋った。声や喋り方、身長も、なにもかもが大して変わっていない。
 大学に入った途端、姿を消した千石清純。地方の国立に合格したのだと人に聞いた時は夏も始まろうとしていた。引っ越していったことに俺が気付くはずもない。家に行ったのは中学の話だ。高校の三年間は、会いに来なければ会わないような、付き合いだった。
 だから俺がこいつをらしいらしくないと判断する根拠はほとんどない。もちろん俺の直感に根拠など必要ないが、俺自身がそれをそう感じている。これも直感だ。俺は、はっきりとこいつに引け目を感じている。
「なんでこんなとこまで来た」
「えー、やりたいことがあって」
「そうか」
「嘘だよ。都内で通えるのに一人暮らししたいって言うのも気が引けて」
「そうか」
 どうでもいい。お前がそう言うならそれでいい、そう思う。こいつに関するすべてのことに目くじらを立てたくない。いちいち驚いたり、戸惑ったりもしたくない。
 高校の三年と、その後の二年と少し、こいつという「問題」に手を触れずにいたことに俺は後ろめたさを感じている。こいつはどうでもいい他人でありながら、俺自身の問題だった。そうあり続けた。解決を先延ばしにすることは俺の流儀ではない。
「今のも嘘、じゃないけど、跡部くん」
 頭を拭きながら千石が歩いてきた。畳の上でぺたぺたと足音が鳴った。そうして板の間が軋み、奴はもうすぐ目の前にいる。さっきの灰皿の横で立ち止まって、しゃがみ込んだ。俺のすぐ足の先だ。
「煙草、吸うのか」
「俺んじゃない。ねえ跡部くん、テニスやめたんだね」
「ああ」
 俺からは何も言わずに離れたくせに氷帝の誰かと繋がっているのは、知ってる。壁に凭れた体を起こそうとしたが、上手く力が入らなかった。千石はすぐ一メートル先にいて、俺の顔を覗き込んでいる。
 その相変わらず馬鹿馬鹿しい色をした髪に、触れたいと思った。濡れてことさら赤く見える。色濃い夕焼けのようだ。この色を見て安心したんだ俺は。そう、言ったら少しはこの気持ちも晴れるだろうか。俺の知らないところで生活しているお前が、俺から遠く隔たった場所を日常にしているお前が、相変わらずその馬鹿馬鹿しい頭で俺は安心したんだよ。
「自分でさ、さっきなんて言ったか覚えてるか」
 改めて聞くと少し低くなった声で千石は訊いた。バーカ、誘導尋問の典型だろうが。
「なんでこんなとこまで来た。千石」
 こんなところへ。こんなところまで。俺からこんなに遠くまで。
 千石は答えずに、ただ鼻を鳴らして、肩に掛けていたタオルをかぶった。しゃがみ込んで膝に顔を埋める姿はまるで、あの夏のコートの上の最後の場面みたいだった。
 俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。その後に起こったことがたとえ、何もかも気に入らない無様なものだったとしても、事実は覆らない。俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。その後俺が何人に負けて何人を負かしていても、俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。



(了)

跡千in北海道。

2006年05月23日(火)

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