■負けルール■ 五年後・南くんと(跡千)


「南はさあ」
 べちゃべちゃしたチャーハンを掻き込みながら千石が言う。
「彼女の言うことは分かるの?」
 いいや、と少し考えるふりをしてから答えた。彼女というのは千石の元カノで、別れて半年も経つのになんでだか今更、俺のところへ相談に来た。何か心境の変化があったんだろう、よりを戻したがっている。
「じゃあ、俺のことは分かる?」
 俺はまた少し考えるふりをした。躊躇うのは、答えたくないのは、失望しているからだ。千石はちらりと顔を上げてにたーっと笑った。
「南も俺と同じだって、あの子が聞いたら『裏切った』って思うよ、きっと」
 何も否定をしなかったので、俺の沈黙はそのまま肯定になった。
 千石は無頓着だ。人が言うほど移り気ではなくむしろ執念深い類いだが、浮気に見えているとしたらそれは無頓着だからだ。でもそういう気分は男にはなんとなく分かる。空気のようにああ、と共感できる。少なくとも千石がその点で特別なわけじゃない。
 だけど多分こいつの言う通り、俺がこいつの肩を持ったら彼女は(そして他の女の子も)目を吊り上げてこう言うんだろう『南くんまでそんなこと言うなんて思わなかった』それは俺が悪いのか。
「同じじゃねえだろ。俺は努力してるよ」
「うーんそうだね。つきあってる子を大事にしてる」
「そうだ」
「南の彼女は幸せ者だ」
「それは違う」
 俺はとっくにチャーハンを投げ出していた。千石は律儀にもうすぐ食べ終わろうとしている。
「俺が取り繕うのは自分でそれが嫌だからだよ。好きになるなら全力でならなきゃ、なんか気持ち悪いだろ。だからそうなるように努力してんだ」
「取り繕うなんて言うなよ」
 ワカメスープを啜りながら、いやに真面目な声で言った。いつだってこいつが真面目だということを本当は俺は知っている。
 中学の頃、こいつと毎日いた頃の俺は、無知で鈍感だった。千石清純をどこにでもいる普通の奴だと思っていた。それは正解だが、当時の俺が正解に辿り着いたのは色々なことを看過していたからだ。振り返れば千石は早熟だった。いつの間にか一人で男だった。俺たちの中でまだ誰も、千石のようにそんな風に自分の性(さが)に倦んでいる奴はいなかった。
 誰もがそれを取り繕って暮らしている。自分の空しい部分をうまく埋めようとしている。
「健太郎はいい奴だよ、本当に」
「お前に言われなくても知ってるよ」
 千石は笑ってスプーンを置いた。

 *

「でもまあ、どのみち彼女とはもう付き合えないよ。俺いま恋人がいるんだよね」
 二人分の食器を手に千石が立ち上がる。拾ってきたようにレトロな卓袱台には、他には何一つ乗せられていない。手渡された布巾で水拭きしても、曇った表面は拭えなかった。本当にこんなものどこから持ってきたのだろう。
 駅から二分のワンルームは古くて狭い。もっといいところにも住めるだろうに変に構わないところが、どうしようもなく千石だ。
「それとなく伝えとく」
「悪いね」
「ここにも来たりするのか? その彼女」
「えーなんで」
 バツの悪そうな苦笑いを、俺はどこかで予測していたように思う。それでもしらばっくれて当たり障りのないようなやりとりを続けた。
「別に。ぼろくて嫌だとか言われないのかと思って」
「嫌だとは言わないけど」
「料理とか、しなかったじゃん。その子の影響?」
「あー、うーん。違うよ、やっぱ一人暮らしだし、自炊しなきゃって」
「いい傾向だろ。お前、与えないと食わない奴だったもん」
「そりゃ、変わりますよ」
 かちゃかちゃと、俺に背を向けたまま千石は皿を洗っている。その姿に首を傾げたくなる気持ちがないと言えば嘘になる。さっきだって、南ハラ減らない?と聞いてきた時は疑わずどこかへ出るものだと思っていた。「なんか食いに行こうよ」それこそこいつの十八番だ。
 火力の弱い電気コンロで千石が作ってくれたチャーハンは、洒落にならないくらい不格好で、そしてまずかった。
『言っていいか?』
『んー?』
『ふりかけごはんのままの方がましだったと思う』
 千石はもくもくとそれを食べた。
 べちゃべちゃした炒り卵とスープの入ったフライパンにふりかけごはんをぶち込んで炒めるという独創的な作り方のチャーハンは千石家伝統の料理なのだという。中学の頃とか何度か、こいつんちで飯をご馳走になった。その時感じた違和感はこれだったのかと俺はようやく理解した。
 千石の母さんの料理は美味かった。でも、別に不味くたってよかったのだ。それはどうでもいいことだったのだ。
「なんせね俺、幸せでいないといけないんだ」
 少ない皿を丁寧に洗いながら、千石は言う。綺麗になってしまった卓袱台の前で俺は手持ち無沙汰に聞く。お前は昔から、俺相手に、まるで聡い人間に話すように話したよ。かつてはよく脈絡の分からなかった千石の言葉が今はあまりに生々しい。
「幸せでなくなったらその子は、すぐに俺の前からいなくなっちゃうよ」
 もしかしたら惚気られているのかもしれなかった。どんなに自分が愛されてるか、どんなに大切にされているかを、千石は表現したかったのかもしれない。そうだといいと思った。思うのは願望であって実際とは食い違う。
 それでも願望なら願望で信じ徹せばいい、それができない自分がひどく残酷である気がした。俺は俺の望むよりまだ幼かった。
「だから幸せにしてないと」
「別れろよそんなの」
「え?」
「あっ」
 いや、悪い。なんでもない。片手で口を覆ったら一気に汗が吹き出した。顔が火を吹くように熱くなった。本当にこんなこと言うつもりじゃなかったんだ、となんとか伝えたいと思ったが、そんなことこいつは大した問題にしていないんだろう。恥ずかしさで目を合わせられない俺の真横ににやにやしながら(見なくても分かる)しゃがみ込んで千石は俺の頭を掴んだ。
「健太郎くんは本当に俺のこと好きよねえ〜?」
 もちろんだ。だから俺の気持ちはお前には一生わからない。ぐりぐりと頭を撫で回す千石の手はまだ遠慮なく濡れていて冷たかった。台所の水は流しっぱなしで、千石は素足で、カーペットはすすけて変色している。その恋人とやらを今度俺に紹介しろ、殴ってやるから。



(了)

2006年05月19日(金)

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