情のガム、のキャラメル■ 実録・千石くん家 と跡部くん




     1


 ママ、ママ、ママ、とおうむのように繰り返してるのは小学四年生くらいの女の子だ。こういう人形あったなあ、トムとジェリーかなんかに出てくる気味の悪いミルク飲み人形だ。外国のこどもってなんであんな恐怖的な趣味なんだろう。
 ママ、と呼ばれているのは俺の目の前に立ってるおばさんだ。俺の隣りに腰掛けている女の子がおばさんに触れるには、そのまだ短い腕が俺の膝の上を横切らなければならない。女の子はそれを遠慮している。ママ、ママ、と同じ強さで繰り返すその子は見た目よりもだいぶ幼く、言ってしまえばまるで頭の足りないように見える。ママ、ママ、おばさんは知らんふりだ。ついさっきまで、女の子が俺の横に座るまで二人はごく当たり前に親子の(それも女同士特有の)会話をしていた。女の子はちゃんと年相応の受け答えもできるし、おばさんは別に娘をこのまま電車の中に置き去りにしてしまおうなんて企んでるわけじゃない。
 ママ、ママ、ママ、ママ、ママ。俺は死にたくなってしまった。跡部くんが一緒だったら良かったのに、と思って、やっぱり俺はそれに耐えられないだろうと思った。本当は自分が死にたいなんか思ってないことも知ってる。


 うちの両親は超愛しあって結婚した。‥‥これからそういう話をするから跡部くんにしか興味のない子は直接彼のとこに行ってね。


 うちの両親は超愛しあって結婚した。家中の反対を押し切って、勘当も辞さない覚悟で父親は母親を奥さんにしたらしい。何しろ二人とも学生だったし、父親は長男で実家は地元の名士、おまけに母親のおなかには既に赤ん坊がいた。山奥のど田舎のことだ、産むなら結婚は許さないとかすごいことも言われたとか。まあ俺がその辺の経緯を知っているという点から、その山奥のお屋敷がどういう人たちの集まりなのか察してほしい。
 その母親は四十二歳、波乱の結婚やら出産やらを経て数年前から大学で助手の仕事にありついている。理工学の研究室がどういうところなのか俺にはさっぱりだが、アルバイト同然でも楽しく好きなことをやっているのは良いことだ。
 父親は彼女にまったく頭が上がらない。見るからに融通の利かない堅物で、青学の手塚と立海の真田を足して二で割って五、六歳老けさせた感じの、しかしながら年の割に若々しく切れそうな雰囲気を持っている。こういう人の下で働くと忙しい自分に充実感を覚えてしまいそうで嫌。
 そして彼らが十九、二十歳の若かりし頃、駆け落ち同然のボロアパートの落ち葉に埋もれた空き箱みたいな六畳間で愛情をたっぷり注いで育てた赤ん坊が俺。なわけはなく、計算が合いませんので、これはマコトのことを指している。俺のお姉ちゃんという人だ。
「真実の『真』に『言う』で真言」
「随分かっちりしてるな」
「俺が『清純』と書いてキヨスミだよ。そういうセンスなの」
 真言は今年で二十四になった。この人の一日は朝の食卓ではじまり、夜の団欒で終わる。イメージと違うかもしれないけどうちは可能な限り家族全員でごはんを食べる家です。で、お姉ちゃんは朝みんなで食事をした後、自分の部屋に帰っていき、それから何をして過ごしているのかは家族の誰にもわからない。俺の記憶にある限りお姉ちゃんは、家の中を一歩も出ていない。
 小学校に上がる前に今のマンションに越してきた時、俺は、お姉ちゃんが新しいおうちに一緒には来てくれないんじゃないかという激しい不安に襲われたことを覚えている。
「だからその前から、なんかしら籠りがちな人だったんだよね」
 自分たち家族よりも家、空間そのものの方を依り代としているように思えたのだろう。あのアグレッシブでタフな両親をしてどうしてひきこもりの子どもが育つのかと不思議に思ったが、「そんなのお前もじゃねえか」と跡部くんが言って、俺はすごく納得したのだった。
「お前とお姉さんは似てんのか」
「顔? うーん似てないかな。全然」
「それは何よりだ」
「そうだね。結構美人だよ」
 俺は澄まして付け足した。跡部くんにルックスの話をされてへこむほど自信家じゃない。
 俺に似てないお姉ちゃんは父親にも母親にもよく似ている。とんがって涼しい感じの目鼻立ちだ。俺が似ていると言えば父方の祖父と叔父(うちの親に『一緒になるなら産むな』と言い放った人だ)なので、そのことに子ども心に変な申し訳なさのようなものを勝手に抱いた時期もあった。今思えば父系の顔に生まれて親孝行だったわけだ。
「そうかい。じゃあ、行くか」
 跡部くんはさっくり立ち上がった。肘掛けのついた丸っこいダイニングチェアがずずっと音を立てて下がった。俺は胃を真下から突かれたような衝撃で声が裏返った。
「えっ、なに、なにが」
「何じゃねえよ、ご挨拶だ。今居るんだろ」
「いやいやいや、いいですよ、気にしないで」
 お姉ちゃんの部屋はさっき俺たちが通り過ぎた、短い廊下の脇にある。広くないこの家で唯一、リビングを通らず外出できる部屋だ。‥‥それはつまり真言が、本当は誰にも知られず様々なところへ出かけている可能性を示しているのだ‥‥跡部くんは冷たく透き徹った目で俺を見た。
「別に、美人だと聞いたから行くわけじゃねえぜ」
「いやでもあの、あのね跡部くん」
「もしかして、客が来るのを嫌がるのか?」
「わかんないよ! あっあのね‥‥」
 跡部くんは、怪訝な、と言うべき顔をしていた。けれどもその視線は本当に澄んでいて、湧き出る山水のように冷たかった。感情的な比喩でなく温度としての冷たさだ。事実、声はむしろ温かかった。
 あのねと制止しながら俺は彼を止める理由のないことに気付いた。ただ、今までは誰もわざわざ会おうとしなかっただけだ。避けるでもなく、ふーんそうなんだと、うちに来た数少ない友達は誰もそれを軽く流した。そして真言が俺に友達について何か言ったことが一度もないというだけだ。会いたいとも、会いたくないとも。
「千石」
 まだ新しい、紙の上の乾ききらないインクのような、跡部くんの俺を呼ぶ声だった。跡部くんが初めてうちに来た日。俺たちがテニスを離れて色々な話をした中学二年の夏の終わり。俺の世界といえば学校の友達、面白くて仕方がなかったテニスと、急にキラキラしだした女の子たち、そして生まれた時から変わらない家族で全部だった。


『どうした』
 電車の音から逃れるように俺は携帯に耳を押し付けた。轟音はホームを去って、機械的だけどやけに綺麗な、跡部くんの声が掌の中から聞こえている。明る過ぎた車内に比べて午後六時の曇り空は暗闇のようだった。
 ‥‥女の子は軽々と立ち上がるとおばさんの隣に並んだ。天井のスピーカから停車駅のアナウンスが流れ、窓の景色は減速した。「ずっと呼んでたんだよ」「そう?」扉が開くと女の子は他の乗客に紛れて母親とホームへ降りていった。俺はまた電車にくるみ込まれて動き出す。
 いくつかの駅を飛ばしていく急行電車の次の目的地は遠い。空いたシートには女子高生が、どこかから現れてぽとりと落ちるように座ると、秘密めいた色あざやかなおしゃべりを続けている。彼女たちの声はキラキラしながら上滑って、俺は相変わらず跡部くんがここに居ないことを考えていた。そして次の駅で思わず席を立った。駅名も確かめずにそこで電車を降りた。
『‥‥返事をしろ千石。でないと非常事態と見なして通報する』
「え、メンゴ、無問題です。いやぁごめんね急に」
『電話なんていつも急に鳴るもんだろ』
「うわあかっこいい。惚れちゃってもいい?」
『何の用だバーカ』
 言っても彼が混乱するだけだろう言葉を俺は頭の中で早口に伝えた。もし、もしあの女の子とおばさんの間に俺だけじゃなく君がいたら、「呼ばれてますよ」とか君は言ったかもしれない。「とんとんってしてみろ」って、腕が目の前を横切ることを女の子に許したかもしれない。君がいたら、俺がそれを言うことだってあったかもしれないんだ。
 それは俺をこんな気持ちから救っただろう。けど、それに俺は耐えられない。君が正しいことをすることに、君のお陰で俺が正しいことをすることに、今こんな気持ちでいる俺は耐えられない。
「うんとさ、あのね、今度うちに来ない?」
 ようやくそう告げると新しい電車が向かいのホームに訪れた。それが完全に停まるのを待つように跡部くんは黙っていた。そして答えた。
『ああ、いいぜ』
 本当は死にたいなんか思ってない。思ったのは、ぶち壊したいということだけだ。繰り返す女の子を引っ叩きたい。黙っている母親を蹴り飛ばしたい。座ってる奴立ってる奴全員ぶん殴りたい。窓も割りたい。蛍光灯も落としたい。そんなことしても【中三男子・突然の凶行】みたいな記事になって若さ故とゆーことになるのだろうなと、いう冷静な思いがすべての衝動をすり替えた。「死にたい」が選ばれちゃったのは、自分で死ぬというのが恐らく俺の中でもっとも実現可能性の低いアクシデントだから。うっかりやっちゃう心配がないからだ。
 跡部くんが初めてうちに来た日。あれから何回か彼は遊びに来て、季節も一回りを少し過ぎたのだけど、まだ一度も家族の誰にも会わせていない。
 君は偶然だと思ってるだろうか。俺は偶然をどうして後ろめたく思うんだろう。
「跡部くんが俺んちに遊びに来るなんて、みんなが知ったらどう思うのかな」
 俺はふと、思い付いただけのことを口にしてみた。
『あーん? てめえまだそんなこと言ってんのかよ』
 跡部くんは呆れるでも怒るでもない声で普通に言った。彼は俺のこと普通に友達だと思ってる。


(続く)

2006年05月14日(日)

閉じる