致命的に体の相性が悪かった。体というかセックスの、それが致命的に合わなかった。俺たちにはそれがどうしようもなかった。俺たちはそれをどうすることもできなかった。


最悪



「どうでもいい」

 低い声が呟いた。俺はまた自分の心が、水に落とした粉薬みたいにばらばらに解けて溶けてなくなっていくのを感じた。まだ感じる。けれどそれはあの時のような耐え難い感覚ではなく、感情から離れたただの事実だ。

 好きだった時もあったなぁ。変わらない体臭の中に埋もれるように息をして、俺はぼんやりと跡部の肩越しの世界を眺めた。

「そうなの?」
「ああ」
「よかった」

 なわけあるかクズ野郎。冷血。消去法で重なっている胸の辺りから跡部の、ゆっくりで力強い心臓の拍動が響いていた。彼の血がとても温かいこと、つまり彼がとても人間的なやつであることを、俺は嫌という程わかっている。だから罵らずにいられないのだ。君は冷たい。冷淡ではない、どこまでも冷酷だ。

 一年ぶりに君のマンションへやってきた俺は開口一番「不二くんとやりました」と言った。嘘でもはったりでもなく間違いなく俺は少し前、不二周助とやった。理由は彼が君の大事な恋人だから、彼が君を愛してるから、君が彼と定期的に性的な関係を結んでいるからだ。そういうことを必要なら説明するつもりでいた俺に、君はただ驚きが去った後で「入れよ」と言っただけだった。

 俺がドアの内側に入った瞬間から、跡部は恋人のことも俺のことも許してしまった。許すというのとは違うのだろうか。跡部は今もほんの少し俺のことが好きだった。きっと一生、彼は間違いを認めないし訂正しない。

 君は正しいよ。君が俺を愛したことは正しいよ。俺は何度も何度も自分の中の跡部にそう言ってやる。俺の中の跡部はつまらなそうな湿気た目をして俺を見る。現実の彼は今、黒いポロシャツの温かい腕で俺を抱きしめている。

「不二くんには会った?」

 返事は「いや」だ。だって彼は居なくなってしまった。学校にも家にもあれきり戻っていない、彼と最後に会って話したのは多分この千石くんだ。

「いや。会ってねえ」
「ふーん。メールとか、電話もかかって来ないの?」
「携帯は生きてる。けど繋がらねえ」
「じゃあさあ、」

 俺は跡部のポロシャツの下から胸に手を突っ込む。

「GPS機能なんか使ってさ、見つけられるんじゃない? 跡部くんならそのくらいできるよね」
「そのうちな」

 たすけてかみさま! 中指の先が跡部くんの小さい乳首に触った。色も形も全部覚えてる。俺は跡部がこんな時(例、恋人が突然消息を絶った時)どうするか知ってる。金に物を言わせて力尽くで探し出して相手の都合お構いなくヘリコプターとかで迎えに行ってその瞳で見つめて、一言「帰るぞ」とか言う。俺と付き合ってた時はいなくなった翌日にでもそうしてたよね。そうしてたはず。

 そうしない理由は明白、俺と不二が別の人間だからだ。跡部は俺を愛したみたいに誰かを愛さないし、誰かを愛したみたいに今の不二を愛さない。中指の腹でそっと擦ると跡部の乳首は固く尖った。

「どうでもいいの?」
「ああ。どうでもいい」

 まるで不二くんのことをそう言っているみたいだ。お互いに、その話をしているみたいだけど、違うことも知っていた。俺は跡部の乳首を触り続けたけど何も起きなかった。ふと思い付いて思いきり抓ってみたら、「ってえ!」という叫びと共に頭を叩かれた。跡部の強靱な肩と背中が弓なりに深く曲がった。

 あはは、と俺は笑った。こうやっている分には俺たちは上手くもいっていた。体を触りあって、裸になって、キスをして、髪の匂いを嗅いだりするのはごく自然に落ち度もなくやれていた。なのにどこからか区切りがあって、その先は少しも前へ進めなかった。

「だったらいいかな。ねえ、俺のことちょっと抱いてよ」
「二度とご免だ」

 跡部は笑って言った。いたわりが湿度オーバーでびしょびしょだ。俺は雑巾を求めている。

「大体『ちょっと』ってのは何だ」
「言葉のあやだけど‥‥試しにって感じかな」
「あーん? 今更なにを試せって?」
「変わったかもしれないだろ、君も俺も」
「何も変わらねえよ」

 それはあまりに穏やかな、彼らしくもない断定だった。そうだ。俺たちは変わらなかった、変わると信じていた健気さとうらはらに、俺たちは互いに一向に変わろうとしなかった。変わればいいのにと願いながら、その努力を怠った。君はどうしてもその努力を受け入れられず、俺はどうしてもその努力をしたくなかった。

 だから最後まで、俺と跡部は最後まで一度も、うまく交わることができなかった。俺たちはその時、幸せでなかった。幸福と不幸のそのどちらでもなかった。君は幸福になりたいと考えて、俺は不幸になりたいと考えていたにもかかわらず。

 俺は跪いて跡部のベルトを外した。そうしながら顔の前にある跡部の衣服越しの性器に唇を添わせた。跡部は俺の髪を掴んでそれを制止した。俺はそのままウエストのボタンを外しジッパーを歯で引き降ろした。

「止めろ。終いにゃ蹴るぞ」
「蹴って。顎砕いて、顔面血塗れにしろよ」
「は、バカが」
「めちゃくちゃにしろよ。なあ、おれのことぐっちゃぐちゃにしろって」
「てめえは」

 どうして、そう。跡部が黙った。俺はすべての動きを止めた。その通りだ。俺たちは何も変わらない。

 俺がドアの内側に入った瞬間から、跡部の全身全霊はただ俺一人のためのものになった。もちろん彼が望んでそうした。「どうでもいい」と彼はただ俺のためだけに言った。彼は全力を傾けて、その言葉を俺に言い聞かせた。

 どうでもいい。俺がどうであってもいい。世界がどうあってもいい。何かがどうあるとか、君の前でそんなことは無力だ。

 だけど俺の中の跡部はどろんとした湿気た目で恨みがましく俺を見る。君は何一つ間違えなかった、君は悪くないよ、俺はそいつに言う。そうやって俺は君に、取り返しのつかない過ちを悔やみながら一生苦しんで生きてほしかった。憎みあってそれでも離れられずに、一生一緒にいてほしかった。

「会いたいなあ、不二くんに」

 たすけて不二くん。俺は誰でもよかったはずの、跡部の恋人の名前に縋ってみる。いなくなった不二くん。羽が生えてどこかへ飛んでいってしまった不二くん。

「帰ってきたら俺にも教えて」
「教えると思うか?」
「きっと教えると思う。きっと帰ってくる、近いうちに」

 いなくなった猫のことを話すように俺はそっと呼吸した。体温の高い跡部の腹筋にこめかみと頬をくっつけていると、同じようにそっと上下するのが感じられた。跡部の手がさっきと違うやり方で俺の髪を掴んだ。

「大丈夫。俺はいつでも君の味方だよ」

 跡部の中を血が流れていく振動が、からっぽの俺の中で大きな音になって響いている。二度と君に抱かれたり抱いたりしようとしない。俺たちはそれをうまくできなかった、できないという事実をその自分達をどうすることもできなかった。致命的に体の相性が悪かった。いきたいところへいけなかった。

 でもこの肌は一生忘れない。この体のことは一生涯わすれない。




(了)

十八歳(十四歳)における一生。

2006年05月10日(水)

閉じる