羽が生えた日





 可哀相なことしたなあと不二は思った。可哀相なのは自分じゃないのかという気はしたが、見るからに可哀相な顔色をしているのは千石の方だった。二つ繋げた机の上に仰向けに寝転んだ千石は、悪い夢を追い払うようにまぶたに拳を乗せていた。前髪が伸びたな、と思いながら不二は彼を見ていた。

 羽が生えたんだよね、と言ったら案の定「見せて見せて」と言うのでシャツを脱いだ。どうせ何か冗談だと思っているんだろう、吠え面かけ、という意地悪な気持ちが少しあったことは認めよう。上半身裸になった自分に、唾を飲み込む音さえ聞こえそうで、可笑しくて堪らなかったのも事実だ。きみがずっと抱かれる方してたって知ってるよ。なのにそうして男みたいな顔して、含みを持って触れようとしながら等閑に背中を覗き込むのを馬鹿にせずにいられなかった。

 そして千石はその場に倒れた。粉飾なく確かに、まず近くにあった机に片手を着くとそれでは支え切れなかった体がぐるりと半分ねじれて、尻餅を付いたあと後頭部を床にしたたか打ち付けるまで千石の落下は止まらなかった。

「大丈夫?」

 仰向いて、裏返した拳の下からこちらを覗くように見、千石は弱々しく笑った。

「あは、ごめんねえ」
「どんなだったの」

 きもちわるかった? 思い出させるのは気の毒だと思ったが興味は抑えられなかった。千石はうーんと唸って何か考えた。不二を傷つけないように言葉を選ぶ間だ。あーこれはきもちわるい決定だな、と不二は思った。

「なんかね、歯が生えてるとこみたいだった」

 それはそれは。不二は想像して気分が悪くなり、千石は思い出してやっぱり気分が悪くなった。ごめんね、という気持ちを込めて頭を撫でると、千石の震えが骨を通して伝わった。骨伝導。振動は腕から肩を這い上がり羽の先端を震わせた。

 不二はそのまま千石の頭を撫で続けた。ぶつけたところとは関係なく、手の届いたところを届く範囲で、繰り返し撫でた。やがて千石は落ち着きを取り戻した声で尋ねた。

「跡部くんにはこのこと話した?」

 不二はふるふると首を横に振った。こう訊かれることはわかっていたし、千石も答えは知っていて訊いたに違いなかった。こんな時、真っ先に訪ねるべきは跡部のところだと二人ともわかっていた。跡部は今、不二の恋人で、そして昔から心配性のやきもちやきだった。

「お前やっぱり天使だったんだな、って言うよきっと」
「言うねきっと。かれ頭があれだから」
「きみに夢中だからだよ」

 それじゃあきみにも夢中だったことあるんだ。皮肉を、口には出さなかった。果たしてそれが皮肉になるのかも判断しかねた。あの無調法に脇腹に潜り込んでくる手、貼りつくように冷たい手を、今のところ所有している自分を千石が憐れんでいないとも限らない。あのみじめな恍惚。あの絶望的な幸福。跡部景吾の皮膚の下の筋肉。

 ポロシャツに袖を通すと羽の付け根に裾が掛かった。外して、と言いかけて耐えられなくなった。それほどまでに僕は跡部のことが好きなのだろうか? この自分と無関係な男を憎んだりするほどに? 不二の躊躇に気がついたように千石がこちらを見た。見るためではなく、見たことを知らせるためのやり方でそうした。

「手を貸してよ」

 聞いたこともない堂々とした口調だった。物怖じしない普段の態度やコートでの自信に満ちた口振りともそれは違った。幼い王子のように千石は、自らにある正当性を無自覚に不二に見せた。ゆっくりと体を起こし不二に向かった。可哀相な男はもう居なかった。

「手を貸して、不二くん」
「なに急に。僕にできること?」
「復讐したい。跡部くんのこと裏切ってよ」

 机の上から両脚を投げ出した千石は、紛れもなく彼自身の国の王子なのだ、と思った。

 傍へ近付いた。肩に手を置いた。千石が胸の辺りに頭を預けてきた。これは慰めで、まだ許可はしていない。許可、と不二は頭の中で繰り返した。自分が許すか許さないかだけでそれは決まってしまう。

「あのひと、俺のこと動物みたいに捨てたんだよ。もう要らないって」
「酷いね」
「あんなに尽くしたのに。俺の、体とか好き放題したくせに。俺ほんとに、」

 あいしてたのに。

「許せないよ。絶対復讐してやるんだ。ねえ、俺に力を貸して」

 千石の手が背中に回された。まだシャツから突き出したままのか細い羽に触れた。触られたという感触は、繋がった背中の一部分でしか感じることができなかった。

「俺のために跡部くんを裏切って」

 千石の声が胸のぽっかり空いた空洞の部分に吸い込まれていった。そこには本来なにがあるはずだったのか、そのあるべきものが恐らく羽になって体の外へ飛び出してしまった。だから不二の中には空洞がある。羽が羽でなかった頃の記憶はもう残っていない。

 羽を伝う千石の指はやがてその付け根に触れた。羽が邪魔して自分では触れることのできない場所、初めて人に触れられる場所、そこは熱を持って膿んでいた。柔らかく弛んだ肉に指先が沈む。痛みはなく、指が冷たかった。そこが腐って羽がぽろりと抜け落ちてしまえばいいのにと思った。羽になるほど要らないものだったのなら、そうして完全に離れてしまえばいいのに。千石がシャツ越しの乳首に歯を立てた。

「うん、いいよ」

 これが許可。そして肩代わりさせた責任の半分を取り戻すこと。

「きみがされてたのと同じか確かめてあげるよ」

 千石の舌がシャツを濡らした。そうして柔らかくほぐされた体から羽が逃げて行けばいい。幾許かの肉が欲しいならくれてやる。どこへでも、お前の行くべきところへ行け。

 その自分から生まれた新しい生き物は、あの湿った冷たい手を知らない。望まないものを吐き出さされる泥の海のような不安を知らない。安寧を知らない。醜く卑しい姿をした、新しい僕だ。




(了)

ちなみに実は三年後設定(十八歳)

2006年05月09日(火)

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