■キス オブ マイ プリンス■


 データが好きなのは裏切るからだ。データが好きなのは、それが生きているからだ。データは嘘はつかない。でもたまに裏切る。人を出し抜く。手塚は少しも下がっていない眼鏡を上げながら「わかっている」と答えた。

「つまり半歩左に落ちる弾みのやや軽い球を拾う時に、相手に前に出られるのを嫌う、」

 喋る速さにあわせてシャーペンがざくざくと雑な図を描く。こうして見ると手塚は喋るのが速い。印象と事実は違う、と乾は思う。

「それでショットの精度が下がる。お前がこう」

 こう、という声とともに引かれた矢印は初め強くあとでゆるやかにカーブして、大雑把なくせにやけにきちんと四角いコートの隅を指した。その軌道を『あ、可愛い』と思った。声も可愛かった。消して何回も書き直させたい。

「狙う確率が‥‥」
「67%」
「で、その球がこう」

 また引く。

「流れる確率が」
「80%です。では全体では?」
「‥‥約55%」
「約か。手塚らしくないね」
「話が逸れる。少し黙っていろ」

 二本の矢印の起点をぐりぐりと塗りつぶした。その点が自分を意味していることを思い出して乾は手塚を見た。わざとなのかどうか、手塚はじっとその目を見返すだけだった。

 手塚は本当はやる気のない生徒会長だ。今日も、テスト期間は部活が出来ないにも関わらず生徒会だといえば居残りが許可されることに、密かに腹を立てている。要もなく生徒会室にだらだら残っているのは腹いせの気持ちがあるのか。

「だから言いたいのは俺がそれを読んで一歩前に出たとして、このリターンを期待して若干ラケットを立てた時に、お前がこっちにこうかこぉ‥‥打つだろ、」
「打ちましょう」
「煩い。そうしたらその時お前は」

『ハズレ』

「と言う。だが俺があえて55%を捨ててお前がスライスで来る方に賭けてやっぱりこう打たれた場合も、」

『ハズレ』

「だ」
「つまり?」
「確率じゃない。俺がそれを踏まえてどちらに賭けるかだ」

 最後にその、確率の低いスライスの着地エリアをぐるぐると囲って、手塚はペンを置いた。

 発行日が昨年になっている保護者各位へのお知らせのプリントの裏が手塚の痕跡で埋まる。乾は不意に胸が詰まるのを感じて、その理由を考えたら簡単なことだったので少し笑った。

 おれたちはもうすぐ三年生になる。来年の今頃は、きっと違う話をしている。

「‥‥いぬい?」
「平気だよ。俺は手塚がどっちに賭けるかも判ってるから」

 手塚がかすかに目を眇める。

「今お前が自分で言ったよ。スライス。俺のデータではここでスライスを出す確率は一割に満たないけどそれでも手塚がスライスに賭けて若干左に加重しておく確率は」
「違う」
「いいや違わないね。確率は実に98%」
「そうじゃない。お前がいま考えたこと、」

 戦闘機の過ぎる音が静かすぎる放課後を制圧した。耳障りなエンジン音ではない。静かに忍び寄り圧倒的なまでに大きく膨れ上がる、空を裂く音だ。

 手塚は言葉を切って左手を乾の頬の側へ持っていった。そして触れないで、今度は身を乗り出して唇に唇を近付けた。

 息が当たる。戦闘機の銀色の影が鉄筋コンクリートの校舎の外骨格を透かして乾と手塚の上を塗りつぶし、そして行ってしまう。手塚は恐る恐る椅子に体を戻した。青空には傷一つ残らない。

「俺の考えたことが何?」

 手塚の左手は、手塚自身の首筋に置かれ、襟足の髪を少し引っ張った。

「矛盾している」

 眉間に刻んだ皺を見て、手塚ってこんなに厭そうな顔ができたんだなあと乾は思った。少し悲しい気もするのに笑ってしまった。手塚はますます厭そうな目をして頭を左に傾けた。

 例えば手塚の身長を計る。今月と先月とでは違う。そう言ったら手塚は『俺はもうそんなに背は伸びていない』と言うんだろうけどそうじゃない。データは日々更新されていく。更新の履歴すら蓄積されて更新されていく。それは生きている。

 来年の今頃はおれたちはここにはいない。テニスの話をしていたとしても、それはもう中学の全国制覇ではないし、手塚も青学の男テニ部長の手塚国光ではない。

 止まってしまうことは寂しい。だが置いてきた場所のことを考えても寂しい。手塚だってさっきキスするのもしないのももったいなくて結局なんにもできなかったくせに、どちらも寂しいと思っている乾を見て厭な顔をする。

「平気だよ。矛盾なんか怖くない」

 そして笑った。手塚の視線が泳ぐのが堪らなく可笑しかった。手塚はまた下がっていない眼鏡を上げようとし、乾はその手を掴んだ。それから、乾はどうやってキスをしようか考え、手塚はその仕方を覚えようとじっと目を開いていた。


(了)




だからテニスの話をしている乾と手塚がすきっていう‥‥ごめんなさい‥‥
どんなに泥沼の愛憎図を繰り広げようがどんなにえげつないセックスをしていようが普通の時に普通にテニスの話をする、そういう乾と手塚がすき。

2005年02月02日(水)

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