ベルリンの足音

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2008年02月11日(月) 自由はやはり孤独なのか

私の夫はとても留守がちである。一年の半分はいない。二週間タクトで帰宅し、また出てゆく。行き先は欧州内であったり、日本までということもある。

そんな生活をもうかれこれ二年ほど続けている中で、私自身も変化せざるを得ない状況にあったのはいうまでもない。

私は現在四十歳をちょうどすぎた頃であるが、この世代の女性は、多かれ少なかれ保守的に育って来たのではないだろうか。たとえ自分に職業があろうとも、やはり家事一般を受け持ち、子供が出来たら自分が産休をとり、生活費を稼いで来てくれる夫に、それなりの感謝を覚える。

私もそんな女性であった。過去形にするのはどうかと思うが、今現在自分が置かれている状況は、それとはまったく違った位置にあるという意味で、過去形にしたが、その道のりは一進一退を繰り返しながらの、茨の道であった。

そもそも、男を男らしいと思う感覚に、権力という部分がまったく含まれていないというのは無理がある。

やはり能力がある男、責任感がある男、感情面でも発達している男となれば、稼ぎも悪くなく、よって頭脳も悪いということもまれである。感情面の発達などと遠まわしな言い方をしたが、家庭でも妻をしっかり満足させ幸福感を与えることの出来る男と言えばよいだろうか。

そういう男性理想像を時代と共に植えつけて来た私は、現にそのような男性と結婚したり関わったりして来た。住んでいる場所が、私の専業主婦という立場に対し疑問を投げかけて来たことなど無い。

ところが、ベルリンに引っ越してきた当時、私は心の中にかなりのプレッシャーを感じたのを覚えている。東側の話に限らせていただくが、子供達のクラスに仕事をしていない母親が片手に数えるほどもいないのである。働いていない、専業主婦であるというステータスは、それに何らかの理由をつけなくてはならないほど、何の立場も無いも同然であった。幸い、私は再び大学生として在籍していたので、学問に専念している外見を保つことが出来たが、内心の焦りは、毎日私に新しい課題を投げかける。

学問などしている場合か?

生活力をつけて、立派に働くのが当然ではないだろうか?

私の現在の夫は、定職が無かったり、あっても収入が無かったりと、金には一切縁がないのではないかと疑うほど、不安定な人生を歩んでいる。

私がベルリンに移って来た後すぐに、会社を止めてしまい、収入が途切れた。私は学生の身分で子連れであり、本当に苦しい時期であった。

しかし、誰一人、稼がない男を珍しがるものはいない。男が稼がなければ、女が稼げば良いだけの話である。極端に言えば、そういうことになる。

それとこれと関係が歩かないかは、また別だが、子供達のクラスで両親が離別していない家庭は、一つ、二つであり、さらに殆どの家庭はステップファミリーという形態をとっている。

愛の名の下に、厳しく生活の問題が食い込んでくる。外国人として、いくらドイツの大学を一度卒業しようとも、一体どんな職に就けるのか。

さらに、権力を含んだ男性性を認められないパートナーに、どのようにして、「保護されている、よって愛されていると感じ、尽くしたい、愛を返したい」という図式を打破し、自分たちの人生の状況に見合った愛情を生み出してゆけば良いのか。

それを私は、手探り状態で試すより仕方なかった。

その私が、ベルリンに移り、夫と一緒になって五年たった今、二つの職業を掛け持ち、もうすぐ前夫からの養育費と合わせれば完全自立できる経済力をつけ、一年の半分夫不在な生活に、本質的な文句を言うこともなく、もう二年以上も生活しているのである。

あらゆる価値観がひっくり返った感がある。南ドイツやスイスにいた時には、誰も、どの社会からも、そんな要求を突きつけられたと感じたことは無かった。むしろ、専業主婦であるステータスは、夫の経済力、すなわち権力を物語るものであったのである。

それが、今は、自分で立つことに大きな誇りを覚え、ある種の解放感さえ感じ始めている。

冬のにおいのする湿った晩に、夫と肩を並べて散歩をしながら、私はそんな自分の感覚を伝えたくなった。

生きていく上での責任を自分の手中に止めておく。

その代わり、自分は誰が来ようと、また去っていこうと、自分の人生が崩れてしまうことは無いという義務のない関係の中に生きていくことができる。

一緒に住む、けれど、経済的には綺麗に別々に生きる。

愛し合っている、けれど一緒には住みたくない。友人との時間を削りたくはない。

「など、色々な自由と解放が可能な男女の関係というのがある。けれど、私が今考えているのは、それを失わないために、では何が犠牲になるかということ。

それをしっかり理解せずに、自立や責任を自分「だけ」で負う人生を選んだり、選ばざるを得なかったりする場合、やはり孤独の渦の中に巻き込まれてしまうのではないかしら。何が犠牲になるのか、しっかり自覚している者のみが、この七面倒くさくて拘束された関係を放棄してもなお、充足感があるのかもしれない。」

確かに愛情関係では、この自立と解放感を保った形態の中では幾つかの無理を生み出すのはやむを得ないと思う。ある程度、互いが自分のために生きていくしかない。義務や条件のない関係では、相手に愛情から費やす時間や労力が生み出すものは、変化の中にある生活のある一定の時期に味うことのできる幸福感というだけかもしれない。子供が生まれようと、男も女も依然、彼らの人生のある部分は永遠に彼らの手中にあるままで、共有されることはないのである。言い換えれば、侵してはならない領域が、愛情関係におけるパートナーの中にあるということに他ならない。

おそらく、この関係で払うことになるプライスは、孤独であろう。無論、人間は一生孤独であるが、それは時に、共有で所有するものとか、共有する目標とかいった類のもので、ある程度孤独感を下げることは可能である。またそれ自体が、愛の目的であるといっても良いくらいなのだ。

しかし、二人でありながら一定の孤独領域を保ちながら生きる方が、共有性をモットーとした関係より、孤独感が強いのは当然であろう。

先日も、行きつけのバーで、年のころが同じ女優二人が、変化することを止めない人生に疲れたような顔をして、どうせアルバイトと大して変わらない女優という職業について嘆いていた。

見栄えも最も悪いはずもなく、自意識がしっかりと発達した大人の女性達である。しかし、舞台女優として自立し、それを邪魔するような男や出来事を辛くても切り取って生きて来た彼女達が、四十を目の前にして感じているのは、唯一つ深い孤独感だけである。三十五から五十までの女優に仕事はこないという。役付けが出来ないらしい。子供も無く、老いという文字を初めて職業柄感じざるを得ない状況で、寄り添うパートナーは、どこまで腕も伸ばしても絶対に自分の鞘には納まらない。逆に、自分とて、今更もう誰の手の中に収まっていることも出来ないのである。

孤独は募る。自由と開放感と自己責任を基本とした生き方は、この孤独感にあっても、しっかり自分の足を地に付けたまま歩み続けるということに他ならない。

結局自分を可愛がってやるしかないということになる。

愛情関係に影が落ちないわけがない。

その生き方に、自分が片足突っ込んでしまったようで、私は夜の散歩道を踏みしめながら、なんとなく足をすくわれるような恐怖を覚えた。私がこの道を選べば、彼もそれを選らぶしか他に方法はない。そうなったら、本当に二人でいる孤独に私は耐えられるのか。

今でも、答えの出ないまま、すっかりそういう道を歩んで何年にもなる人々の間をさ迷いながら、この先ももうちょっと歩いていくしかないのだ。どこへ行くかもわからずに。


momoline |MAIL

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