| 2015年03月25日(水) |
「やがて哀しき外国語」(3) |
まさかの3本目!! 小説家の考え方と自分を比較できる本だったので、 もうちょっといってみますw いやもう、ほんとこれ最終章ね 笑笑 こんなこと考えるのもしばらくないだろうしw
“いちいち言い訳をしない” という項目にて。
いささか大げさな言い方だとは思うけれど、 たとえ世界中に誤解されたとしても それはそれで仕方ないじゃないか、と基本的には 僕は思っている。 逆にいえば、 “小説家というのは良くも悪くも、そんなにみんな にすんなりと理解されちゃかなわないだろう” ということである。 「知は力なり」という言葉もあるけれど、 小説家にとってはむしろ「誤解は力なり」 という方が正しいのではないか。 小説の世界では理解を積み重ねて得られた理解 よりは、誤解を積み重ねて得られた理解の方が、 往々にしてより強い力をもちうるのだ。
これはダンスでも同じかもしれない。 どちらも相手に投げかけるものなので、 その受け取られ方にすべては依存してしまいます。 世に出る者として、かるく全否定されかねない事実。 ある意味そんな極めて危うい職業だともいえるかも。 なにしろ、まもってくれるものがない! わたし自身、最後は自分を信じて踊っていますが、 言葉を別にすれば、 誤解されても仕方ないという言い方だってできます。 誤解されても仕方ない、そう割り切らないと、 人前に自分自身をさらけ出したりできない。 だからこそ、誤解されない努力が必要だとおもう。 漫然と “誤解されても仕方ない” じゃないこと。 自分自身を肯定しすぎないこと。疑うこと。 これはどんなものでも等しく必要な心意気です!
しかし、わたしは “小説” の世界を踊っていません。 “現実” を踊りたいとおもっています。 わたしは、理解してもらいたいんじゃないのだと 今はそうなってしまいました。 理解してもらうよりも各々が何かを引き出せる踊り。 たとえわたしが踊っている内実とは別のものを感じ てもらったとしても、たとえそれが全否定されるも のだとしても、それが何にもならないものではない ことを知っています。 感じてもらいさえすれば “何かになる” からです。 だから “理解されちゃかなわない” というよりも、 “わからないけど何かがある” 踊りを目指したい。 だって…
《わからないからこそおもしろい》!!
それは、わたしたちの “わかろうとする何か” のはたらきかもしれない 理解したいとおもうこころがあるからなのかもw
僕はどちらかといえば学究的な人間ではないし、 学問としての文学というものに興味を持ったこと はほとんどないし、文学というのは結局は 個人的な営みであり解析不能なものだと思って 生きている人間
悪気はまったくないのですが、 これが文章の限界だとおもった 対して、ダンスは “その時間” にしかない のこるものと、のこらないもの その決定的な違い。 それは空間の共有の仕方です。 踊りにはその空間にエネルギーの循環があること それを本番中、リアルに実感するんです 本はこれの逆かもしれない。 誰かと何かを分かち合うというよりも、 自分にとっての静と向き合って、 文章から何かを発見するよろこび。 空間から得るものじゃなく知能的な問題じゃないか? そんな考えが突然まとまりましたw そしてそれは文章でないとできないことです。
カラダで向きあうこと、文章で向き合うこと
体感するものと知覚するもの その感動はやはり別次元だとおもいます
待てよッッ もしかしたら知覚する踊りもあるかも!! 知覚するダンスってどんな… たぶんあるな。これはある。 いや、ここで脱線したら戻ってこれない(殴) 踏ん張ろう自分ッッ 笑笑
人前で踊るダンスなら、解析不能は踊れない。 そんなダンスもたくさんあるとおもいますが、 すくなくとも自分には踊れません。 踊るなら、解析可能な余地があると信じたい。 どちらにしても、その踊りを一目見ればわかることw 逃げ場なんかどこにもありません!!
解析不能と書けば “ゼロ” のイメージわくけれど、 たぶんゼロじゃないんじゃないかなw まったくわからないわけじゃないとおもう。 それが、なんとなくだろうとも、ほんのすこしでも “わかる” ことがあるよね?
だって同じ人間のやることなんだもの。 同じならどこかにそんな衝動もきっとあるw わからないわけがないじゃない! 笑笑
感じるって、人がもつ物凄い力だとおもうのです ここに希望をもっていいんじゃないか それを信じなきゃ、踊ってないとおもいます
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