断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年03月23日(月) 「やがて哀しき外国語」(1)

かおちゃんから借り受けた本、最終回!
やっとここまできたぜ―

 『やがて哀しき外国語』  村上春樹
  初めてプリンストンを訪れたのは
  1984年の夏だった。
  F・スコット・フィッツジェラルドの母校を
  見ておきたかったからだが、その7年後、
  今度は大学に滞在することになった。
  二篇の長編小説を書きあげることになった
  アメリカでの生活を、2年にわたり日本の
  読者に送り続けた16通のプリンストン便り

村上春樹を読んだのは『ノルウェイの森』のみ。
しかも。『ノルウェイの森』がどんな作品だったか、
まるで憶えていません。。
なんだろう、、この記憶にない感じ―
自分にとって大きな衝撃がなかったのかな。。
日本文学の名著にもあげられる本かと思いますが、
ほんとうに憶えてない!
ノーベル文学賞にノミネートされるほどの人物よ?
さあ、わたしにとってそんな作者の二作目です。
どれほど記憶に残るのかはわかりませんが、
おもしろかったw
差し込み数は、、、8!! いってみよーう☆

ってか差し込み以前に、まずはタイトルについて。
本にはこのように書いてある。

 それは外国語を話さなくてはいけないのが
 辛いとか、あるいは外国語がうまく話せな
 いのが哀しいということではない。 もち
 ろん少しはそれもあるけど、それが主要な
 問題ではない。 僕が本当に言いたいのは
 自分にとって自明性を持たない言語に何の
 因果か自分がこうして取り囲まれていると
 いう、そういう状況自体がある種の哀しみ
 に似たものを含んでいるということだ。

そうです。 村上春樹の文章は “超明晰系” です!
この文章だけで このblog見ない人が現れそうw
だけど、わたしは実はこの文章のようなものを
踊りにしていますw  たいへん興味深い
そしてその後にはこう続いてます。

 「僕らがこうして自明だと思っている
  “これらのもの” は、本当に僕らにとって
  自明のものなのだろうか」

 たぶん自明性というものは永劫不変のものではない

その分析にはかなり度肝を抜かれました。
なるほど。 そうかもしれない
この本は日本を離れた作者が、日本にいないからこそ
自分自身を問うような作品です。
日本人にとってはあたりまえのことでも、
海外ではあたりまえでもなんでもないのだw

それから、あとがきの最初になりますが、
この本についてはこう綴ってあった。

 通り過ぎる人には通り過ぎる人の視点があり、
 そこに腰を据えている人には腰を据えている人の
 視点がある。
 どちらにもメリットがあり、死角がある。
 かならずしも、第一印象でものを書くのが浅薄で
 長く暮らして じっくり ものを見た人の視点が
 深く正しいということにはならない。
 そこに根を下ろしているだけ、
 かえって見えないというものだってある。
 どれだけ自分の視点と真剣に、
 あるいは柔軟にかかわりあえるか、
 それがこういう文章にとって
 いちばん重要な問題であると僕は思う。

この文章に、わたしはたいへんな共感を覚えました。
人前に出すということはこういうことだろうと思う。
“わたし”には、わたしなりのダンスしか踊れません。
だからこそ 自分自身の視点に、真剣に、
柔軟にかかわりあわなくてはならない。
それがダンスにとっていちばん重要な問題だと思う。

なーんだ、同じじゃんw

わたしには伝えたいことがあります。
伝えたいことがあるからこそ、その伝えたいものを
出来るだけはっきりさせなくては。
立場は違えども何かを世に出す職業であれば、
自分が何をしている者なのか、
真剣にならざるを得ませんw
ここに責任をもたなければならないのです。
これは、自分から発信する職業のプライドだと思う。

◎決してあやふやなことはできない◎


 地域的な環境保全だってずいぶん重要な問題である
 「そんなことよりもっと大きな問題があるだろう」
 と非当事者が言うのは簡単だけれど、まず自分の庭
 の樹木一本から始めていくというのは、それなりの
 ひとつの見解ではある。「問題が大きすぎる」と言
 って初めからあきらめて何もやらないよりはもちろ
 んずっとましだ。 やれるところから地道にひとつ
 ひとつやっていけば、いつかその先に突破口が見つ
 けられるかもしれない。 そういうアメリカ版団塊
 の世代に比べて、日本における僕らの世代が今何を
 いちばん問題にして、何を実行しているだろうかと
 考えると、もう一つ明確なイメージがわいてこない
 まあ世の中にはいろいろと頑張っている人もいるだ
 ろうし、何もしてない人もいるだろう。 でも実際
 問題として、大多数の僕と同世代の男性は毎日の仕
 事がとにかく忙しすぎて、余計なことなんて何もで
 きないという実情ではないだろうか。 そういう僕
 だってあちこちふらふらしているばかりで、ものを
 書く以外にとくに形のあることなんて何もやってい
 ない。 でも僕も今度日本に落ち着いたら、何か自
 分にできることを身近に探してみようという気には
 なっている。 いちばんの問題は、
 自分にとって何ができるか、自分は何をしたいのか
 というのを見つけることだと思う。
 別の言葉で言い換えれば、どこまで自分の疑問を小
 さく具体的に絞り込んでいけるかということに
 なるのかもしれない。


頭のおかしいおばさんについての記述がありました。
スティーブン・キング氏の『ミザリー』を
盗作である、と訴えでた人の話。

 「あれは実は私の作品です。ほとんど一語一句
  私の書いたままのものです。
  少なくみつもって90%まではそうです。
  家に押し入って、原稿を盗んでいったんです」

 あるとき彼女は「自分の家の上空をスティーブン・
 キングが盗聴装置を積んだ飛行機に乗って飛んでい
 て、盗み聞きをしているので、それをやめさせて
 ほしい」という訴えを起こした。
 その訴えを聞いたスタッフは述懐している。

 「でも彼女は真面目なんです。自分の言うことは
  隅から隅まで真実だと心の底から信じきって
  いるんです。 私もなだめようと説得はして
  みたんですが、そんなことをしているとですね、
  なんだか自分が悪人の側についているみたいに
  感じられてくるんですよ」

 僕も同じような種類の “ちょっと変な人” からの
 手紙を受け取ったことがあって、それで個人的な
 興味を持ってこの事件の経緯をスクラップしていた
 のだが、あらためて記事を通して読んでまず思った
 のは、《こんな人が実際に近所に住んでいたら
 きっと大変だろうな》ということだった。
 こんな人に下手にかかわったら何を言われるか、
 何をされるかわかったものではない。
 偏執狂的なしつこさがあるから、一度何かをはじめ
 たらとことんやめない。 本人は自分が正しいと
 信じているから、他人の言うことになんか一切耳を
 傾けない。 確信を持っているから、知らない人は
 言われたことをそのまま信じてしまうかもしれない
 こういう人の近くには住みたくない。

こういう人。。 怖いですよね
でもいるもんね、こういう人ッッ
話してみると 概ねその傾向は顕著です。
話が一方通行にしかならないし。
話すことが断定的だから、会話にならない。
印象がキツイ(どう見ても器量の狭さからだと思う)
逆にいえば一途とも言えますが、一途だからこそ怖い
一途な思い込みこそが事件にはつきものです!
だからといって自分自身もなりえること。
一歩間違えば誰にだって。
その行き過ぎた考えは上のスタッフみたいな気持ちに
もなるかもしれない。
説得しようとする自分がわからなくなるほどです!
その思いの力、引力こそはただならぬもの。
その思いにも善悪がないのならいいのですが、
現代社会ではかなりむずかしい問題になります。
問題はこの “一途な力” の使いどころなんです!!

◎人間にとって、実はこの力こそが最大の輝きです◎

しかしその輝きの使いかたは誰もおしえてくれません
災厄をまき散らすことにもなりかねない諸刃の剣。
そんな人と関わりにならないことは簡単に選べますが
自分だけなら、自分を守るためにはできても、
問題のほんとうの解決にはなりません。。

どうやったら、
みんながその力を明るい方向に示せるんでしょうか
どうすれば、そんな社会が実現できるんでしょうか
避けることは簡単ですが、関わることは困難です。
まず、他人にあたるより前に、自分自身ですよね?
“自分にとって何ができるか、自分は何をしたいのか”
これを見つめて、そしてやってみなくちゃ。
その先に相手との距離が必ず見えます。
そうすれば、きっと力をあたたかくつかえるとおもう


ダンスにまるであてはまる文章にも遭遇w

 自分が流暢に話せないことを弁解するわけではない
 が、すらすら外国語が喋れてコミュニケートできる
 からといって個人と個人の気持ちがすんなりと通じ
 合うというものでもないと僕は思う。 すらすらと
 コミュニケートできればできるほど絶望感がより深
 まっていくということだってあるし、つっかえつっ
 かえ話し合えばこそ気持ちが通じ合うということだ
 ってある。 楽器の演奏にたとえるなら、超絶的な
 テクニックがあるからといって必ずしもより明確に
 音楽を表現することができるわけではない、という
 のと同じだ。 もちろんテクニックはないよりはあ
 る方がいい。 だいいち楽譜が読めなければ演奏も
 できない。 でも極端なことを言えば、ばしゃばし
 ゃミスタッチがあっても、途中でつっかえて演奏を
 中断してしまっても、こころを打つ演奏というのは
 あるはずだ。 僕はそう思う。
 僕の経験から言うなら、外国人に外国語で自分の気
 持ちを正確に伝えるコツはこういうことである。
 (1)自分が何を言いたいのかということをまず
    自分がはっきりと把握すること。
    そしてそのポイントを、なるべく早い機会に
    まず短い言葉で明確にすること。
 (2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉
    で語ること。 難しい言葉、
    思わせぶりな言葉は不必要である。
 (3)大事な部分はできるだけ
    パラフレーズ(言い換える)こと。
    ゆっくりと喋ること。
    できれば簡単な比喩を入れる。
 以上の三点に留意すれば、それほど言葉が流暢じゃ
 なくても、あなたの気持ちは相手に比較的きちんと
 伝えられるのではないかと思う。
 しかしこれはそのまま《文章の書き方》にもなって
 いるな。

自分自身を踊ることにも実はこれがそのまま通じます
自分をはっきりと把握する、自覚すること。
ハートがきちんと乗っているダンスにすること。
思いにそぐわない技術、
思わせぶり、すごいダンスは不必要。
大事な部分はゆっくりと踊ること。

どんなことも “伝える” には素直さが不可欠です
そしてその場所、タイミング。
考えれば考えるほどすべてが大切になる。
かといって全ては制御できるものじゃありません!!
だから、できることを精一杯やったあと。
やっとこの言葉になります

《自分を信じる》

人と正直に向き合うことがどんなに困難なことか
自分が人前で踊りたいダンスとは一体なんなのか
いつもこれが立ち返る原点です☆

つづく。


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