| 2012年11月01日(木) |
「伏 鉄砲娘の捕物帳」 |
伏を狩らねばならない猟師の少女。 人に狩られる運命を背負った青年。 二人の間に生まれた儚い想いと決断の物語。
『伏 鉄砲娘の捕物帳』 まっすぐに、走る
◎猟師と獲物の間には見えない糸があるという◎ 祖父の死をきっかけに山を下りた猟銃使いの少女・浜路。 観るもの聞くもの初めてづくしのその町で、奇妙な噂を耳にする。 人と犬の血を引き、人に化けて暮らし、人の生珠を喰らう<伏>と呼ばれる者たち。 そして、彼らが引き起こす凶悪事件について― 居場所を探して彷徨う浜路は、犬の面をつけた白髪の青年・信乃と遭遇してしまう!
監督は『忘念のザムド』の宮地昌幸。 『忘念のザムド』はこのblogにも遺してるとおり、たいへんな名作です! もうそれだけで映画を見ることは決めていましたw 伏は、ザムドと同じように人のカラダを超えた内在する暴力的な力を秘めていた。 ところが、ところが同じじゃない! 伏の描き方あまりに中途半端じゃないのかこれ… これはおそらくその前にみた映画が『魔法少女まどか☆マギカ』だったからかも!!
登場人物が抱えるこころの葛藤の密度があまりにも違いすぎる
比べるつもりはありませんが、どう見ても緊張感が足りない足りてない!! 劇中で最後にたたかう徳川家定の有様なんかどうにも納得がいかない!! すべてを譲ったとしても…「なんだったんだあの人」が拭い去れない!! “子供のあそび”にしか見えない命のやりとり…
いのちはそんなかるいもんじゃあないだろう
もちろんこれは“映画”ですから表現方法は千差万別です。 ただ、わたしが見た“その時”にはおっそろしく他人事のようにみえました… 伏はなんで人をころして生珠を喰らわなきゃいけないのか。 人の生珠を喰わなきゃ人のカタチをたもてないのか。 人じゃないのなら、人の考え方は通じませんよね。 でも伏は人間社会の中で生きているんですよ? リスクありすぎだろ― じゃあ何を考えてるんだ伏は!! そう、これは中途半端だ 伏という在り方が中途半端すぎる 人でいたいというなら人になりたいと切望してくれよ!! 妖怪人間はそこに苦悩があるから共感できるんだよ!! 最初はろくでもない人間を狩っていた信乃。 しかし最後は善悪査定なしに人を殺して殺して殺しまくります。 浜路は信乃に淡い恋心を抱き、信乃は浜路の生珠を喰らうのをこらえるんです。 人は化物に恋はしません、猿に恋をしないのと同じです
仮にあるとするなら共通する何かがなくちゃ
最後までほとんど緊張もないまま映画は終わってしまいました 残念です、期待が大きかっただけに残念です。。 そんな中でも“これだ”という台詞がありましたので紹介したいとおもいます。
「にせものだってな、必死で生きてりゃほんものなんだよ!!」
生きようとする度合いによっては本物よりも偽物のほうが勝っている論理ですね。 さて、実を言えばこれよりももっと印象的だった場面が序盤にありましたw それは瓦版を売り歩いている滝沢馬琴の孫・冥土のこころの中での台詞。
呼んでもないのに振り返った そのとき私たちはつながっている、そう感じたんだ
これはわたしたちの日常におもいきり潜む得体の知れない方向、こころのベクトルです そういうときがありませんか? 感じませんか?? 自分で言うのも変だけど、わたしはそれを感じ取る力に長けているようです。 わたしはダンサーですので職業としてそれをダンスにしている種類の人間でした。 しかも、オマケ人生においてこの力が強く具わったようなのです。 一目見るだけでその方向がわかるんだもん ただし、これは決してありがたい力というわけではありません。 むしろ諦めなくちゃいけないのがわかるものだからです。 ◎わたしたちには目に見えない糸があります◎ それはわかりやすくいえばケータイの電波みたいなもののようなものといってもいいかも。 わたしたちがしている他愛もない会話など「いいね!」を押しまくっているようなもの。 だけど、なんてことないことに運命を感じたりもするのです!! それは「いいね!」ではないのではないでしょうか そう、それはきっとほとんどが“リアル”のはずです ふとした仕草や振る舞いにそれが現れるんですよ!! カラダ、カラダです。 カラダの内側からそのひとりひとりが出ているんです
わたしはそれを“ダンス”と呼んでいます
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