ぴんよろ日記
DiaryINDEX|past|will
| 2011年03月03日(木) |
事情であって武器ではない |
何日か前のニュースで、子どものアレルギーのことを特集していた。そこに一組の親子が出ていて、卵アレルギーを持って暮らすことが、とても大変そうだった。とにかくお菓子やら何やら、卵の気配を感じないようなものにまで、卵の成分が入ってたりするのだ。こりゃたまらんだろうな、と思った。しかし、東京から来たらしいその母親が、長崎(のような田舎)はアレルギーに対する認識や理解が遅れている、ということを、(正しさビーム全開で)語るんだけど、(素敵な私が暮らしていた)東京のデパートともなれば、試食品を渡す時にも「アレルギーはありませんか?」って聞いてから渡すんだと。申し訳ないけど、そればっかりは「げー」と思った(あぁ…どんどん不穏に…)。大変なのはわかるけど、そこまで人に「正しさ」を求めるのはどうなのだ。 昨日は昨日で、本屋さんのレジの列(5人くらいいた)に並んでいたら、車いすのおじさんが「オレもここに並ばんといけんとかね」と、聞こえよがしに言っていた。まぁ確かにレジのテーブルは高いから、彼について配慮は必要だろう。でも、その言いかたはないんじゃないかな。あなたなりに「元気に」本屋に来て本を「立ち読み」して買おうとしてるのに、レジの時だけ声高に「弱者」であることを威張るのは。 前にツイッターにも書いたけど、長崎はまだ「急ぐ人のためにエスカレーターのどっち側かを空けておく」習慣がない。時々、都会から来たっぽい人が、「なんでこいつら空けてねーんだよ、ったく田舎モンが」的に舌打ちしながらグイグイ進んでることがある。都会では「不機嫌そうに急いでる人」のほうが偉いんだなぁ、と思うし、人が多い街ならではの知恵なんだろうとも思うけど、すべての人や街がそうである必要も、まったくない。それに「都会的」って本当は、誰かに決めてもらったり、ましてやそれをしないと罰を受けるからなにかをするってことじゃなくて、急ぐ人が「ちょっとすみません」って言えば、「どうぞ」ってよける、あるいは、それが暗黙のうちに行われるようなことなんじゃないのかしら。 弱さは、配慮されるべき事情ではあっても、人を責める武器ではない、と、誰かが言ってたようないないような。
|