ぴんよろ日記
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2010年02月01日(月) ち、に還る。

 今日から2月。雨。昨日は孤独死の番組を観た。テレビの前で家族3人と猫2匹。ヒコに「終わるまで静かにして!」と言うのも申し訳ないような、寂しい話が続いた。
 ひとりぼっちの寂しさ、というよりも、どこにも、だれにも、なににも「還れない」哀しみ。ほかでもない自分が「ゴミ」になってしまうおそろしさ。感情的、精神的なものよりも、むしろ物質的な「還れなさ」に対する哀しみが際立って見えた。引き取り手のない遺骨を整理していた「特殊清掃業者」は、記者に「これはどうなるんですか」と聞かれて「ゴミでしょうね…」と答えるしかなく、甥っ子の骨を「無縁墓地に」と申請した叔父は「名字が違うからおなじ墓には入れられない。仕方ないですよ」とつぶやいた。
 たとえば魂は、死体がどうなろうと、自由かもしれない。でもやっぱり、人間は魂だけの存在じゃない。体にはどうしたって「血」が流れているし、いくばくかは「地」とつながっている。そういう「ち」の、どぶんどぶんという大きな流れの中から、ひととき、ザブーンと波立ってザザーッと戻る、というのが、私の「生死」のイメージなのだが、昨日の人たちには「ザザーッ」の着地点がなかった。波立ったまま固められ、世界の片隅にガラガラと乾いたまま放置された。ひとりの生身の人間が(還りたいという意志はあるのに)、死という関門を経て、そのどちらの「ち」にも還れないというのは、なんともいたたまれないことだ。「死という生」を生きられないということは。
 多少うっとうしくても、2つの「ち」を引き受けて生きることは、人間のある部分において、普通に思われているよりもずいぶんと重要なことなのだろう。

 とりあえず…赤ん坊は、がんばって産もう。(どんな結論だ)


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