ぴんよろ日記
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ケーブルで編集のサポート。ライブハウスとそのマスターを取材してきたようなのだが、それを見ながら「リアルタイムって、やっぱり強烈だよな〜」と思う。ビートルズのコピーをしているおじさんたちが映っていた。彼らの今だけを見るなら「懐かしがりやさん」でしかないのだけど、彼らはビートルズの新譜を待ちに待ってたりしたことがあったんだな、と思うと、そりゃー、その気分だけは一生もんだよな、と思う。そしてその「ときめき」は、やっぱりリアルタイムのめぐり合わせでないと味わえない。だからいつの世も新しいものは現れるし、それを心待ちにする気持ちも存在する。たとえそのクオリティが、別の世代の人から見れば焼き直しのくだらないものでも、「まだ見ぬもの」「待ちわびて手に入れるもの」という、「古典」には肩代わりできない役割がある。なんてことをボーッと考えた自分自身、いま「若き日の細野さんの歌声」がブーム。YMOですらない頃の。 リアルタイム、ってことは、後世に残らない「雑多なもの」も一緒に吸い込むってことだ。その人のゴシップ記事とか、番組のゲストに出たとか、雑誌に書いた短いエッセイとか。そういうものは、よほどのことがないと残らない。でも、それこそが空気だし、妙に覚えてることだし、自分と時代とその人たちの細かい接点だ。「古典」となる「作品」の素晴らしさは、それによっては揺るがないけれど、それがあるのとないのでは、その「古典」を味わう味蕾の数に、格段の差をもたらすだろう。もちろんそれが「価値そのもの」を曇らせたりゆがませたりしてしまうことも多々あるだろうが(別れ話を切り出された時に流れていた曲を、平常心で聴くことは難しそうだ)、ほとんどの人にとっては、それでいいのだと思う。 しかし困るのは、自分たちが熱き青春時代にリアルタイムで聴いていたものを、後の世の人がおなじ熱狂を持って聴き込まないことを嘆く人がいることだ。そんなことできるわけないでしょ!
昨日、包丁で指を切って痛い。けっこう深かったので、キズパワーパッドがパンパンにふくれている。血もいっぱい出て動揺したのだが、その動揺がストレートにヒコにシンクロしたので、グッとこらえた。ニコニコピカピカの顔が、瞬時に曇った。これは「傷を見て痛そうと思った」とか、そういう目に見える次元の話ではなく、もっと、テレパシーというか、意識のあずかり知らないところでつながっているパイプがある、というような感覚だ。直結感。これはヒコが赤ん坊の時にはよく感じていたし、おっぱいをあげながら暗いことを考えた瞬間に泣き出すなんてこともあったけど、最近は忘れていた。ほんとうは、まだつながってたんだ…。
すごいこじつけかもしれないけど、親子、特に母子って、究極の「リアルタイム」だ。だから、まだ自分が柔らかい時に聴いた曲を「なんでこの良さがわからないんだ!」ってわめくのは、「オレの母ちゃんのコロッケがいちばんうまいに決まってるだろ!」ってダダこねてるようなものなのかもしれない。そういう人と遭遇したら、今度からそう思えば腹も立たないだろう。
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