ぴんよろ日記
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2009年04月16日(木) 海の子

 ダンナの父は、イカ釣りの漁師だった。一隻持っていた船で景気よかったもんだから二隻に増やしたところで…という、どの世界にもよくある話で船を降りざるを得なくなったのだが、それから二十数年経って亡くなるまで、その風貌は「どう見たって漁師」であり、テレビで「マグロ釣り漁に密着!」的番組があれば、主人公もしくは「仲間の漁師」に、必ずそっくりの人がいる。
 「イカ釣り船の息子」だったころのダンナの話を聞くのが好きだ。「長い漁に出る時は、港の防波堤の一番はしっこまで、走っていって見送った。船は、鳥羽一郎を大音量で鳴らしていた」とか「港に帰ってきている船にこっそり乗って船員さんたちの部屋に行くと、たくさんエロ本があって、ドキドキした」とか。
 生月の船が沈んでしまって、私はそれを「悲しいニュース」として見ていたけれど、ダンナにはもっと近しいものだったようだ。昨日、洗濯物を広げながら、突然、ひとりごとのように話しだした。「もう、寝とったとなら、……。狭かとさ。カプセルホテルのごたる部屋っていうか、上に食堂とかのあるとけど、そこに行くとは、穴っていうか、こうやって(煙突の中みたいに)登って行くような感じさね。だけん、そっから水の入って来る時に、そいに逆らって出るっていうとは、まず無理やし、暗かけん、傾いてしもうたら上も下もわからんし…、寝台車のごたる、シャーッて閉めるカーテンの一人一人にあるくらいのもんさ、そいでそのベッドの下にエロ本の挟まっとっとさ、……だけん、狭かし、出られんと…」
 沈んだ船は135トン。ダンナの家の船は、100トンで申告してたけど、実際はもうちょっとあったらしい(様々な大人の事情があるようだ。「ズル?」って聞いたら「原付の免許で125に乗るようなもんさ」とのこと)。つまり、ちょうどおなじくらいの船。漁の種類が違うから、まったくおなじ造りではないだろうけど、「漁」に関する部分はそれぞれに工夫されていても、「居住区域」については、似たり寄ったりだろう。だから、ダンナの中では、かつて自分が「家の船」としてこっそりエロ本を探していた船が沈んでしまったような感覚だったのだろう。
 金子知事が視察に行っていたけれど、さすがに「職務上」という雰囲気ではなかった。船に乗っていた人の大半を知っていると、新聞にはあった。生月出身の、金子水産の金子さん…島ではきっと「金子さまのおぼっちゃま」なんだろうけど、そこでは、海に生きる者たちのみが知る、あきらめの入った受け入れるしかない悲しみを、目を合わせただけで共有していたのかもしれない。

 読みかけの本を開いたら、こんな時に、なぜかこの頁に行き当たった。江戸時代、五島、有川の鯨組。今回の現場とは、おなじ海だとひっくるめてもいいくらいのところでの話。

 そこへ、西の空からまっ黒な雲がまるで墨を流したように、サーッと空一面ひろがってきました。波がみるみる大きくなって突風がサッと海面へふきつけてきました。そしてあられまじりの雨がたたきつけるようにふってきました。
「しまった」
と気のついたときは、もうおそかったのです。クジラは網をつきやぶり、モリのつなをきってにげてゆきましたが、いまはおいかけることもできません。波が高くなってみるみるクジラを見うしないました。
「ひきかえせ」
と親方船はあいずしましたが、もう船はみんなばらばらになり、大きい白い波がザーッとよせてくるたびに、船はつぎつぎにくつがえります。いまはそれをすくうこともできません。
  (宮本常一「海をひらいた人びと」)

 結局それがきっかけでその鯨組は廃されるが、ほかの鯨組もまた外国の捕鯨船にはまったく打ち勝てず、ほどなく終わりを迎えた。しかしその後、西洋式のやりかたで日本の捕鯨は再興する。「クジラとり」の章は、この文で終わる。

 ところが、南氷洋へでかけていく人たちは、昔からクジラをとっていた五島の有川や、山口県の仙崎の人が一ばん多いということです。そしてまたそこの人たちが、一ばん上手でもあるのです。こうして海の子として勇敢にはたらいているのです。

 海の子。
 海の前では、どんな豪傑も、知恵者も、だれもが「子」にすぎない。息子を探す女性が繰り返した「海が広すぎて…」という言葉が、そのままなのだろうと思う。


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