| 2004年12月27日(月) |
ザ・パイプカット4 /性に戸惑うヲトナたちへ |
セックスの目的が種の存続のみであるなら、避妊という言葉すら存在する意味がありません。されど人が他の動物たちと異なる知性を持ち、社会生活を営み、そして快楽と愛情の探求を手放さないかぎり、避妊は必要不可欠な行為に違いないのでしょう。 西暦二千年の春に、僕は実父を亡くしました。当時はまだこのヲトナごっこを開設していませんでしたが、その頃動かしていたサイトで、僕は父の死に関するコラムをシリーズで書いた覚えがあります。それを読んだある方が、ご自身のサイトで「身内の不幸をテーマにした文章を、ネットで書く気持ちが理解できない」と評されたことがありました。 生意気なことを言うつもりはありませんが、甘っちょろいなと僕はそのとき感じました。奇麗事だけで物書きとして存在できるなどとは、僕は端から思ってはいません。根に毒を持つ美しい花があるように、人間には難解きわまりない複雑な心があります。それと対峙して文章を著すからには、核心をどこまでも追及して文字にすべきでしょう。ぎりぎりのモラルとルールの下で、出せるものはとことん出し尽くして書くべきでしょう。僕はそう思います。 けれどそういう意味においては、今回僕が書いたこのシリーズは、ものの見事に敗北宣言を出さねばならないのかもしれません。僕がどうしてパイプカットに至ったのかという、その最後の決断理由が、なにひとつ述べられていないからです。シリーズ冒頭にも書いたように、それは、僕のみならず妻や家族をも巻き込む事態となるからなのですが、書けない以上は何を言っても言い訳にしかならないでしょう。 ただそれでも、この一件を僕がウェブに記録したいと思い立った心根を、できれば真摯な読者諸氏にはご理解いただきたいと願ってやみません。 僕は決して、パイプカットだけが唯一の道であるとは考えていません。確かに確率的な視点で避妊を考えるのなら、パイプカットに勝る方法はないと思えますが、僕はむしろ、避妊を考えることで男女お互いの性を真摯に考える道を見出して欲しいと願っているんです。精子がどうやって作られるのか、卵子がどのように排卵されるのか、それすら知らずにセックスしてる人間が、驚くほど多いのではなかろうかと僕は想像しています。 「避妊についてどう考えてるの?」と、さりげなくベッドのなかで囁いてみてください。たいていの男は、おそらく引くはずです。僕もそうでしたから。しかしその態度を、無責任だと批難してはいけません。問いただすのではなく、問題を提起し一緒に考える機会をもって欲しいということです。男が女の性に疎く、女が男の性に疎いのは、考えてみれば当たり前のことなのですからね。 そして僕の今回のコラムも、そんな「考える切っ掛け」になってくれればと、そう切に願っています。愛するもの同士が求め合い、体をひとつにすることで至上の愛を感じるというのなら、そこに存在するリスクも同時に、ふたりで分かち合うべきだと僕は思います。性の快楽を追求するならなおさらのことです。己の快楽のために、相手を犠牲にしても良いなどという理屈があろうはずもないでしょう。 それから、性というものの捉え方が幾分「陰」となる傾向が強いこの国では、性、とりわけ性器に関する悩みを打ち明け難い環境があって、それがもとで病院に通うことをためらう人も少なくないだろうと想像しています。パイプカット手術というのは、決して後ろめたい行為ではなくて、そのときどきにそこにある状況を真摯に考えた結果であるということを、当たり前のように認識しなおすべきだとも僕は思います。 いつだったか、ヲトナごっこを開設して間もない頃に、堂々と年齢相応にアダルトコンテンツを愉しもうというような主旨のコラムを書いたら、「アダルトというのは陰で愉しむから意味があるんだ」という反論をいただいたことがありました。それも理屈としてわからなくはないのですが、そういう考え方が僕には、性の問題を陰へと押しやっているように思えてなりません。まあそう書くと、「それとこれとは話が別だ」と言い返されるのがオチでしょうけど、人間の意識というのは、そういうところでしっかりと繋がっているように思えてならないんです。 物事というのは、一朝一夕にはいきません。人間と同じだと思います。避妊も然りです。「責任を持てないのなら避妊するのは当然だ」と即座に口にする女性もいますけど、正論を結論のみで論じてはいけない場合もあるのだと僕は感じています。確かに結果としてそうなるとしても、プロセスを互いに納得できるように経験しないことには、いかなる正論も机上のものとなり得ることを知るべきでしょう。くどいようですけど、人間なんですから。 僕は甲状腺に持病を抱えています。もう三年近くになりますけど、毎日服薬する日々がつづいていて、それは今後もほぼ生涯に渡って繰り返されるだろうと医師には言われています。そして年齢的にも、そろそろ前立腺や大腸辺りの心配をしておいたほうが良い年齢になってきました。そんなときに、パイプカットが縁というのも妙な話ですが、泌尿器専門で内科も診てくれる良い先生にめぐり合えたことは、僕にとって喜ばしい出逢いでもありました。自身の生殖器を中心とした疑問に、忌憚なく答えてくれる先生とめぐり合えたのですから。 パイプカットをしたからといって、僕の生活にこれといった変化は生じませんでした。肉体的に不具合が生じたわけでもなく、それまで以上に遊興にふけったわけでもありません。いやむしろ、精神的には遊び難くなったという気すらしています。そして同時に、そういう自身の経験を通して、性を自分の目で確かめ学ぶ姿勢を身につけられたようにも思えます。 誰かを喜ばせることが愛であるのなら、誰かが苦しまないように処置することもまた、愛なのかもしれません。そして何よりも、そうやってお互いにいたわりあうことこそが、僕は人間関係において大切なのだろうと思っています。避妊を考えるということは、そういう愛情に繋がるものなのだろうと……。 【了】
|