ヲトナの普段着

2004年09月06日(月) 一青窈と女の視線 /心に浮かぶ無垢な瞳

 このところ、一青窈の歌をよく聴きます。切っ掛けは、テレビのサスペンス劇場テーマ曲だったのか娘のCDか定かでないのですが、手許にある二枚のアルバムを、とっかえひっかえ聴く日々がつづいています。そしてときどき、僕の目の前にはなぜか、ふたつのアジアの視線が浮かんでくるんです。
 
 
 一青窈をご存知ない方も少ないかと思うので、改めてここで記すのも少々気がひけるのですが、話の流れとして記録しますので、軽く読み流してください。彼女は1976年に台湾人の父と日本人の母との間に生まれ、台北の幼稚園卒園後に日本に移り住みました。歌は中学の頃から歌っていたようですが、どちらかというと芸術系の学問に造詣が深そうです。プロフから判断する僕の認識でしかありませんけれど……。
 
 彼女のなかに流れる「大陸の血」がどれほどのものなのか、正直なところ、それを的確に解釈することが僕にはできません。日本という音楽マーケットで特異性を盾にアーティストを売り出すのは常套手段ですし、穿った目でみれば、彼女もそんな流れに乗せられているという解釈もある気がするからです。けれど彼女の歌声から伝わってくる「ノンフィルターな響き」は、現代の日本女性にはないもののように僕にはきこえます。それが素であれ創られたものであれ、音楽という芸術作品を論じる際には、大きな問題ではないということにもなるのでしょうか。
 
 
 僕は、若い頃から夜の街を徘徊していました。夜遊びというと、すぐに風俗系の女遊びと結びつける人も少なくないようです。確かにそれも無であるとはいいませんが、もっと総じた夜の世界を、僕はいつも愛してきたような気がします。それはときに華美であり、ときに醜悪であり、天国から地獄までを狭いエリアで体感させてくれる空間でした。
 
 僕が住む街は、東京でも外れに位置しています。都市計画ではエッジという呼び方をしますが、端っこには文化や風俗が屯しやすいのが常で、例に漏れずこの街にも、異種雑多な多国籍の世界が展開されています。そんな夜の街で僕がよく感じていたのは、日本人女性と外国人女性の視線の違いでした。もちろん人それぞれの背景を手にしてるわけですから、個人差はありますしそれを全てだなどとはいえないんですけど、僕が関わった女性のなかには、明らかな違いがあったように思えます。
 
 
 もう何年も前の昔話ですが、上海出身の女性と親しくしている時期がありました。何かの文章に書いた記憶はあるのですが、それがここのコラムであったのかどうかは覚えてません。ただそのときも書いたんですけど、僕は彼女の瞳に見事に吸い込まれていった覚えがあります。瞬時に全てを読み込んでしまうことなど、到底話したところで理解されないかもしれませんけど、あのときの僕は、まさにそんな感覚であったような気がします。
 
 夜の街を生き抜くわけですから、彼女自身にも、きっと知らず知らずのうちに、そこで自分を殺さない術は身についていたに違いないですし、現に僕もそういう姿を横目でみてはいましたが、僕をみるときのノンフィルターな視線には、美も醜もストレートに顕にした女の姿が感じられました。僕はその瞳がとても好きで、いつも見惚れていたように思い返されます。
 
 話は現在へと飛びますけど、僕が月に一度くらいの割合で顔を出す店があります。このエリアにしては珍しく、フロアの中央にグランドピアノがあって、カラオケなど置かない少々高い店なんですけど、雰囲気が好きでたまに顔を出しています。ホステスのほとんどは日本人女性なのですが、僕がそこでご縁になったのは、どういうわけか台湾人を片親に持つ女性でした。
 
 僕と彼女とは、何ら深い関係にはありません。ただ一ヶ月か二ヶ月に一度顔を出しては、屈託のない話をするだけの間柄です。彼女は僕とのお喋りをかなり気に入っているようですが、恋人としてみる気配はまったく感じません。まあ……僕も同じなんですけど。ただそれだけに、店のなかで他の客の接待をしている姿をみるにつけ、自分の隣に座っているときの顔と違うのに驚きます。僕の隣にいるときの彼女の瞳には、やはりフィルターがかかってないんです。
 
 
 こう書いてくると、「要するに、こいつは自分が好意を抱く女は、すべて自分に対して無垢であると思い込んでいるんだな」と思われる方もいるでしょうね。そうですね、否定はしません。なぜなら僕自身が、常にそういう気持ちで彼女たちに接しているからです。それをきちんと受け止めて理解できる子は、きっと僕に対してノンフィルターの視線を向けるでしょうし、そうでない子は奥行きのない視線を向けるでしょう。
 
 その店にいる子は、ほとんどが日本人女性です。なかには「いい子」もいますけど、彼女たちの多くはフィルターを持つ目をしているように僕は感じています。そのフィルターは、ときに金であり、ときに男であるわけですけど、羽振りやルックスに左右されない無垢な視線を持つ子というのは、なかなかいないのが現実だと僕には思えます。夜の世界の性質を考えれば、それは至極無理のない話なんですけどね。
 
 
 大陸の血が流れているという背景が、僕にそのふたつの視線を特異なものとしてみせていると考えるのは、少々強引な論理のようにも思えます。けれど、一青窈の歌を聴いていると、不思議とその想いが自然と胸に浮かんでくるんです。日本という国はあまりに成長しすぎてしまい、無意識に手にする価値観のなかに、人間として持ってはいけないものを多く採り入れすぎてしまったのではなかろうかと。
 
 それは常に自己を守ることであり、協調を敬遠することであり、素顔を見せないこと。いずれも夜の世界では当たり前の模範に違いないのに、それがかえって、彼女たちの目を曇らせているかと思うと、少々やりきれなくなってきます。
 
 真実にせよ虚飾にせよ、僕の目には彼女たちの姿が愛しく映ります。それはもしかすると、人間の業に掻き回された世界ならではの、最も人間味溢れる姿だからなのかもしれませんね。


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ヒロイ