人は黙っていても老いてゆきます。肌に艶が無くなりシワが増え、体のあちらこちらに贅肉がつき、若い頃の肉体など見る影も無いほどに変化してゆくものです。殊に女性は、そういう自身の変化にとても敏感ですよね。けれど、君は美しいんです。 僕は現在四十一歳です。物書きとしてはまだまだひよっ子、社会人としてはようやく中核の仲間入り、若い子たちにはすっかり「おじさま」として見られる頃合でしょうか。そんなおじさんですけど、自身の過去を振り返ってみてしみじみ思うのは、「年齢相応に女を見るものだな」という感慨です。若い頃は若い自分を通して女をみ、現在は四十を越えた目でみています。 僕自身が若い女にあまり興味がないという理由だとは思うのですが、不思議と僕と言葉を交わす女性は三十代が多いように思えます。そして彼女たちの口からは、多かれ少なかれ、自分の肉体が老いてゆくことへの怖れを耳にするんです。僕が決まって言うのは、「綺麗だと思うけどな」という言葉。彼女たちはそれを社交辞令かなにかのように受け止めているようですが、僕は心から三十代の彼女たちを美しいと感じています。 美しさの基準ってなんでしょう。ダヴィンチやミケランジェロが感じていたような美の世界が、美しさの基準なのでしょうか。或いは渋谷を闊歩する若い子たちの感覚が、美の基準となるのでしょうか。僕にはそうは思えません。 なぜそれを美しいと感じるか。それは、美しいと感じる人がいるからです。つまり、僕にとっての美の世界とは、僕がいなければ存在しない世界であって、それは、ダヴィンチやミケランジェロのものとも違うし、流行の先端を闊歩する子たちのものとも違うということです。僕のなかでは、僕が感じる美のみが美しく、他のいかなる基準もそれに当てはまるものではないんです。 いま仮に、美しさの世界標準があったとしましょう。誰もがそれを美の基準とし、世界の多くの人たちがそこを目指しています。けれどそんななかにあって、あなたはあるひとりの男と恋愛関係になりました。あなたは彼に好かれようと、世界標準である美を目指します。しかし、どうも反応が芳しくない。そこで彼によくよく訊いてみたら、彼の好みは世界標準とは全く異なるものでした。 「僕は、君にしかない美しさが好きなのに」と彼はいいます。世界が認める美しさよりも、彼女にしかない美しさが彼は好きだというんです。どのような身なりをしていても、どのような表情をしていても、どんなに疲れた肉体であっても、彼は「君は美しいよ」と微笑みかけます……。 女とは、とかく「見られること」を意識して生きているように思えます。「見られてる意識がなくなったら女はお仕舞いよ」という言葉もききますし、「見られてる意識があるから綺麗でいられるんじゃない」という言葉もききます。なるほどそうなのかな、と思うこともあります。けれどそれって、随分と曖昧ですよね。だってそうでしょ、美の世界標準などないのだとしたら、一体なにを基準に彼女たちは綺麗でいようとするのでしょうか。 そうそれは、女の主観的なものでしかないんです。誰が美しいと評するわけでもなく、自分が「美しいであろう」と感じているだけの話なんです。だから曖昧だと僕は感じるわけです。むしろ、「彼が綺麗だって言ってくれるから」という理由のほうが、僕には遙かに説得力があるようにきこえます。 美しさを気にするのであるなら、自分の美を求めることも多少は大切に違いないでしょうが、見る側の言葉にも充分に耳を傾けるべきではないでしょうか。そして、若さとか端整であることが美の基準では決してないことを、あなたを取巻く人々の反応から察して欲しいと思います。願わくば、自信を持ってください。他の誰にもない、あなただけの本当の姿、本当の美しさを見極めてくれる人は、きっと近くにいるはずですから。 人間の素の姿というのは、実に美しいものです。僕は心からそう思います。
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