徒然なる日々。
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2003年05月20日(火) 君に心から

自分が愛着を感じているものを、他人に理解してもらうということは難しいものです。
私は自分の愛着を他人に理解してもらいたいとは思うけど、私のために無理に理解したような振りをされるのは当然嬉しくない。
逆に、人が愛着をいくら感じているものでも、自分自身が興味を持たないものには、一切興味が沸かない。
別に、きっかけはなんでも、本当に愛着を感じてくれることには、感謝にも近い、同士としての共感を得られた喜びを感じますが。
私は本を読めば、それがどれほどの駄作であれ、「自分が読んだもの」としてある意味、一種の愛着を持つ人間です。
だから、実際は、自分に興味がなくても、人が興味あるということを、自分の目の前で語ってくれた時点で、接点は持ってしまったと考えています。
この世にこれだけ物の溢れている世の中で、たまたま私の手に飛び込んで来てくれた、それだけである種の接点を持てたという繋がりを感じるからです。
それが人であれ、場所であれ、団体であれ、作品であれ、食べ物であれ、時間であれ、同じことです。
私は常に、「自分の好きそうな何か」を得たくて、アンテナを張り巡らせています。
だから、ちょこっとでもかかわったものに対する愛着は、人一倍かもしれません。(脱線しますが、人一倍って言葉変じゃない?人の一倍って同等じゃないの?人一倍の努力って、人と同じだけ努力みたいな感じしない?特に字面をみると…どうでもいい…)
もちろん、私が今まで関わってきた中、そして私の中で「嫌い」「大嫌い」のカテゴラリに分類されてしまったものも多々あります。
私は特に、自分が我侭で、好き嫌いの激しい人間であることを自覚していますから、人よりこれが多いかもしれません。
そして、それらのカテゴラリに分類すらされず「どうでもいいもの」「忘れ去ってしまったもの」という塵扱いの物も、実際あります。
私は人一倍(…)物覚えの悪い人間なので「忘れ去ってしまったもの」は、人より多いでしょう。
「嫌い」は別種の愛着だと思うので、これはともかく「どうでもいい・忘れたもの」というのは私の中で、どうなるんだろうと時折考えます。
私は私が今まで関わったもので構成されていると考えます。
もちろん、たくさんの出会いの中から、取捨選択してここまで生きてきたのですから、私に限らずそうだと思いますが、私は実感を込めてそう思います。
実際、今こうして、液晶モニターの前で、キーボードをぱすぱす叩いてる私は、無数に散らばる人生二択を選び抜いての前提で存在してるんです。
間違いなく。それは、私が私自身に「どうでもいい・忘れ去ったもの」と分類してしまった…と、いうか、分類されてしまった(ここのカテゴラリは無意識で分類されているものが多いから受動的)ものたちの影響も、多く含んでいることは、考えるまでもなく明白でして。
もちろん、大きな影響は、好意を持つものや、嫌悪を抱くものが大きいのでしょうが、無意識下で選んだものこそ、案外大きな影響を与えてくれていたりするものなのかもしれません。勿論、無意識下でのことなど、私が自覚してるわけがないので、実際のところどうなのか判りませんが。
そして、当然、自覚ある上で、自分の好みで道を選ぶ時、積極的な意味で一番私の道に影響を及ぼすのは、間違いなく「好きな物」「好意をもつもの」でしょう。
この世にこれだけ溢れる数々のものの中から、私が出会い、そして愛したものたち。

なんて愛しいんでしょうね。ありがとう。ありがとう。
出会えたことに感謝せずにはいられないよね。

そんな気持ちになれるものを、共感してくれる人が近くにいたら、嬉しいよね。ありがとう、ありがとう。
とても楽しいものを教えてくれてありがとう。
私が好きなものを好きになってくれてありがとう。
私が嫌いなものを、一緒に嫌ってくれてありがとう。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。


それは、まるで、私自身を理解してくれているようで、とても嬉しいのです。本当にどうもありがとう。





…笑って読み飛ばしてくれることを心から祈ります。
本心だけど読み返してみても意味が判らない。その上まるで遺書のようだ…(笑)


マサキ