徒然なる日々。
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2002年03月20日(水) 桜満開。

異様なほど暖かい日が続き、例年よりもだいぶ早く咲いた桜がほぼ満開になった2002年の3月19日、かねてから入院していた祖父が亡くなりました。
入院してから47日目のことでした。

急変の連絡を受け、タクシーで病院に向かう間、私は母と笑いながらきっとまた着いたら症状落ち着いてるに違いないと話していました。
今まで急変の連絡を受けるたびに、大体がそんな感じで、高熱が出たといって呼ばれては薬で症状が治まっていたり、意識不明といわれても少しずつ回復していたり…そんなことが続いていたので、今回も同じではないかとどこかで期待していました。

でもどこかで嫌な予感はしていたような気もします。2、3日前に夢で白い花に囲まれた真っ白な棺の夢を見ていたので、何だか近々逝ってしまうのではないかと懸念していたので。

病室にたどり着いたとき、今まで一度もしまっていたことのない病室のドアが閉まっていて、嫌な気分になりました。
少し汚れたクリーム色のドアを私が押し開けて、母と二人で病室に入ると、動かなくなった祖父の頭をずっと撫でながら「今までよく頑張ってくれたわね。本当にありがとうパパ」と繰り返し言う祖母の姿と、その隣で泣く祖母の姉の姿がありました。

始めは頭が真っ白で、何がおきているのかわからなかったです。それでも、ずっとぜいぜいと息をついていた祖父の胸が全く動かないのを見て、じわじわと祖父の死を理解しました。
驚いたし、勿論悲しかったけど、泣き伏してしまうほどのショックは受けなかったです。むしろ、病室にいた客にお茶を出し、死に装束を取りに帰った祖母と母に代わって父と兄に連絡をいれ、病室で祖父の荷物を片付けて…いつもより格段に気の利いた対応が出来ていたと思います。
誰もが皆悲しんでいたけど、皆冷静で取り乱す人は誰もいませんでした。

死に顔は少し顔色の方が薬疹が出ていてよくなかったけれど、数日前に祖母が見つけた新聞記事で読んだエンバーミングという方法で、死化粧を施してもらう約束をたまたま取り付けた日だったので、すぐに話はつき、2時間後には作業に入っていた。おかげで随分と顔色もよくなり、顔も生前の穏やかな祖父の顔に戻っていました。
その作業を待っている間に遺体のない霊安室で葬儀の相談をしました。
今はお彼岸の最中で寺が混んでいるので式は来週になるらしい。
式のことは、鈴木家の冠婚葬祭を全て取り仕切っている方がずっといてくれたので、滞りなく大体のことが決まったようです。まだ決まっていないことも、式までに時間があるのでゆっくり決めることができるらしい。


今回、祖父は私達にたくさんの時間をくれました。

時間を掛けてゆっくり衰えることで祖父の死に対する覚悟を決める時間。
何度も危険な状態になりながら長く持たせたことで葬儀の準備をすっかり整える時間。
兄は立て続けにあった友人の結婚式を2回ともキャンセルすることなく出席することが出来たし、この彼岸近くのおかげで私も卒業式に出る時間をもらいました。
決まった通夜の日の前日は会社の(祖父は現役で働いていた)役員会で、葬式の翌日は関連会社の株主総会だったそうで、会社関係の人たちも困らないように上手い具合に予定が決まったそうです。

ずっと意識不明だったのに、なにもかも理解しているかのように、皆の困る時期を避け、皆が辛くないように時間を与え、桜が綺麗に咲き誇った日、静かに祖父は逝きました。

「うまくやったでしょ?」なんていいながら、すこし顎をつき出したいつもの得意気な顔をして、笑っているに違いないと素直に思えます。


本当にどうもありがとう、おじいちゃん。


マサキ