霞んだ闇の中からうっすらと光が射した。 ふと、いつの間にか自分が砂嵐荒れ狂う荒野に目をつぶって立っていたのかと現実を誤認する。 しかし、視界がはっきりとした時に見えたのは、自分の手の甲。 視界の次に回復した触覚が、全身の皮膚を通して肌に馴染んだ感触を伝えてくる。 視界に映っている自分の手の甲が手前に行ったり来たりする。 いや、自分の脳が、そうさせているのか。 無意識に、自分の周りに張り付く何かに手を滑らせていた。
・・・『俺』は、寝ている・・・?
うつ伏せになって接している全身の触覚が、少し湿ったシーツの触感を伝えている。 やけに馴染んだ感触だと思った。 自分は、とある宿屋の世辞にも豪華とは言えないベッドに横になっていたのだ。 そこまで認識したところで、無意識と有意識の間を彷徨ったまま行ったり来たり上がったり下がったりしてシーツの感覚を確認していた自分の手が、何かにぶつかる。 しかし、その塊は生暖かいと言う言葉がぴったりの温度を持っていた。 これは、なんだ。 そっと指を這わす。 これまたやけに指に馴染んだ、適度に張りのある弾力感。 これは、一体。 これは一体、なんだ。
「起きたのかい?」
その塊が、急に音を発した。 その時、夢と現を彷徨っていた自分には、聴覚はなかった。 しかし。 鼓膜に響く、低く甘い音。 聴覚を持たない自分がそれを言葉と認識することはなかったが、身体に馴染んだその音は、鼓膜を甘く振動させた。 視覚でその塊を確認しようと思った。 触覚では限界がある。 身体を起こす動作と共に、『俺』は早急にその他の五感を復活させることを自らの脳に命令する。 視覚と触覚だけでは、何もできない。 身体を起こすと、さらさらと肩口から髪が零れる。 別に、特に手入れをするわけでもないが、この髪は強張ることなくさらさらと流れ続けた。 視界に入る白いシーツはこれでもかと言うほどにしわくちゃに波打っていた。 そこに、血を零す様に流れ落ちていく、自分の髪。
「・・・起きたのかい?」
もう一度、その塊が言葉を発する。 <オキタノカイ?>、そう聞こえた。 聞こえた、そう、つまり聴覚の復活だ。 五感を失うほどに、目を覚ます前の自分が何をしていたのかなんて微塵も覚えてはいない。 しかし、実際、驚くほどに自分は何もできない赤子同然の、いや、それ以下の五感しかなかった。 言葉のする方を、ゆっくりと首を回して確認する。 少々長すぎる髪の毛が視界を遮ったが、その隙間から見える視界を繋ぐだけでも、世界は形作れた。
「まさか、気絶するなんて。おめぇさんが、そんなにヤワだなんてな。」
そう言ってその塊は、少し口角を上げる。
・・・・―この塊は、なんだ。
見覚えがあるような気がするが、それが何なのかまでは意識が到達しない。 意識がと言うよりは、記憶が、だろうか。 凄く、聞いたことのある、声。
「そんなに酷くしたつもりはないんだがね。辛かったのなら謝る。」
チッ、と音が鳴って煙草に火が点く。 そう、<アレ>が持っているのは煙草。 『俺』が寝ているのはベッド。 波打っているは、シーツ。 ここは宿屋。 今、半ば視界を遮っているのは髪の毛。 起こした身体を支えているのは腕。 だけど、どうしても、<アレ>がなんなのか、思い出せない。 とうとう『俺』は、その塊を認識することを諦め、もう一度ベッドへとうつ伏せる。 <アレ>は喋り続けた。 ・・・煙草の、匂いがする。
「しかし、おめぇさんが起きないから、どうしようかと思ったぜ。」 「置いて帰っちまうわけにもいかねぇだろう?」 「気がついてよかった。」
鼓膜が、甘く震え続ける。 別に、耳元で囁かれているわけでもないのに。 凄く、聞いたことがある気がする。 どこで、聞いたんだったか。 この、低く腹にズシンと響く声は。 そんなことを考え続けた。 そうしたら、その生暖かい塊は、『俺』の沈黙をどう取ったのか知らないが、黙り込んだ。 煌煌と明るい部屋に、無機質な静寂が横たわった。 煙草を吸って吐く音だけが、水面に水滴を落とすように反響していた。 しばらく、煙草を味わっていた<アレ>が、サイドテーブルの安売りされているビールの空缶に押しつぶす気配がした。
「・・・なぁ、<アイスル>気持ちってわかるかい?」
さっきまで一方的だった喋りが、問いかけに変わった。 それは、わかった。 しかし、鼓膜を振動させる音を上手く言葉に変換できない。 この塊が何かもわからないのに、更に言っていることがわからなくなってしまったら、おしまいだ。 この塊は、何が言いたかったのだろう。 枕に顔を埋めたまま、『俺』がその問いかけに反応することはなかった。
「俺は俺なりに、これでもおめぇさんを<アイシテル>んだぜ?」 「おめぇさんが俺のことをどう思ってようがかまわないがね。」 「わかりにくい形かも知れねぇが・・・俺は、おめぇさんのこと・・・」
ぎっ、とベットが軋む音が鳴る。 肩をつかまれ仰向けにされた『俺』に、生暖かい塊が圧し掛かってきた。 そっと落ちてくる柔らかい感触を自分の唇で感じた時、何かが脳内でフラッシュバックする。
・・・!・・・
そうか、コイツ。 コイツは、『俺』の。
その瞬間、手に、何か硬いものが当たる。 咄嗟に、武器だと思った。 しっかりとそれを握ると、身を翻し、ソイツに馬乗りになる。 その振動で、ベッドから上布団がずり落ちる。 今や、ベッドの上は裸身を晒した『俺』とコイツだけだった。 武器は短刀だったらしいが、構うことはない。 何故、そんなものがベッドの中に転がっていたのかも、『俺』の知ったことではなかった。 左手で相手の左肩を押さえつけたまま、右手で渾身の力を込めて相手の右耳の傍に短刀を突き立てる。 長めだった相手の後れ毛が、数本はらりと枕に落ちていった。 枕は羽毛だったらしく、周りに羽根が舞い上がった。 枕だけはで上等でいやがる。 そんなことを脳の片隅で思った。 そして、視界を取り戻してからこっち、初めて『俺』は音を発した。 尤もそれは、言葉などではなく、うなり声に近かったけれど。
「・・・『俺』に触るな。」 「『俺』はいつでもお前が殺せる。」 「『俺』が邪魔だと感じたら、迷わず殺してやる。」 「いいか、お前は、いつだって『俺』に逝かされるんだ。」
呆気に取られる相手に、クロスした腕の隙間から鼻先つき合わせてそこまで威嚇すると、『俺』はさっさと服を身にまとう。 こんなところ、一刻も早く出て行きたかった。 部屋を出ざま、『俺』は、捨て台詞を吐いた。
「・・・『俺』は、誰にも縛られたりしねぇ。」
静かに部屋のドアを閉めた。 ドアの向こうでアイツがどう思ってるかなんて、どうでもよかった。
ただ、今更ながらに復活した味覚が、貪欲にアイツの唾液を欲していた。
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