オモフトコロアリ。
past / will
2006年02月27日(月) オリンピック閉幕。 

冬季五輪が閉幕した。
日本では夏季に比べて盛り上がりにかける気がするのだが、
個人的には冬季種目の方が好きだったりする。
一番好きだったのはフィギュアスケートだ。
毎年シーズンを楽しみにして、国際大会が中継されれば必ず見ていたものだ。

それがここしばらくは全く見なくなってしまった。
「フィギュアはコスチュームがやらしい」と言うのが身近に居るせいもあるのだが、
一番の要因はジャッジの不透明さだ。

私には忘れられない選手が2人居る。
1人は中国の陳露選手。手足が長くリンク栄えする美しい身体と、
それにふさわしい優美さ、しなやかさを表現するのが得意な選手だった。
カタリーナ・ビット以来20年以上も(!)フィギュアを見ているのだが、
表現の麗しさで陳露に勝る選手は未だに出ていない気がする。

もう1人がフランスのスルヤ・ボナリー選手である。
名前を聴いても判らないかもしれないが、
判定に抗議してメダルを拒んだ黒人選手といえば判る人が多いだろう。
長野で競技上は反則であるバックフリップを決め、
競技から降りてしまった選手でもある。
すばらしい身体能力と抜群の技術力を持ち、
当時練習ではあるが女子としては初めて4回転を決めた選手だ。
もっともその記録はスケート協会に公認されず、
公式には安藤美姫が初の4回転ジャンプ成功選手とされている。

:ちなみに別に安藤の記録を貶めるつもりではない。
 彼女のジャンプの方が難易度も高い上に、
 競技会で成功という実績は素晴らしいと思っている。年の為。

で、ボナリーである。
彼女の演技には表現力が足りないとか、バネだけで飛んでいるだとか、
当時からかなり評がからかったのは覚えている。
しかし、では「表現」とは何だ。と、私は思う。
あの力を集約したジャンプが、それを支える高い技術が「表現」でないのだとしたら、
フィギュアにおける「表現」とは何なのだろう。
「美しさ」や「情感」は確かに表現されるもの一つだろう。
しかし「力づよさ」も「躍動感」も表現されるべきものではないのだろうか。
それは個性であって、表現力の優劣とは次元の違うものではなかろうか。
例え競技において得点が高くなくとも、彼女の演技は人々を沸かせ、
記憶に残るものだった。それが全てである。

彼女自身は人種的偏見を理由に挙げていた。
私はそれを肯定も否定もする材料は持たない。
だが、まるで彼女にだけはメダルを与えないと言いたげなジャッジをする国があったのは確かだ。
そして国と国、採点者の国と演技者の国との関係が如実にジャッジを左右していた。
そんな様子に嫌気がさして、私は競技としてのフィギュアを観るのを止めたのだ。
今では得点に疑問を持たずにすむエキシビジョンくらいしか観ていない。

現在の得点方式であれば、ボナリーはどれくらいの技術点を取れたろうか。
陳露はメダルに手が届いたろうか。
対照的な2人の「表現者」を思うとき、私は競技としてのフィギュアに疑問を感じるのである。

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